2012年6月  4.司祭の優先順位
 「修道院では、どのようなものを食べているのですか」と尋ねられて、「霞を食べています」と答えたことがありましたが、信じていただけませんでした。当然なことです。現代の世界、日本の社会で働く司祭は、奥山の雲の上で、社会から隔絶して、修行に励む仙人ではありません。浮世離れするどころか、世にあって、世の人々の救いのために、粉骨砕身働くよう召されています。ただ、ここで注意すべきは、何のために司祭になったのかという目的意識と優先順位を忘れないことです。
 『徒然草』の中にこんな話があります。「ある人が、説経師になることを志して、まず乗馬を習った。僧になった後、法事など頼まれ、馬で迎えが来たときに、皆の前で落馬などしてはみっともない、と考えたから。次に早歌を習った。読経の後食事のもてなしを受け、時には宴に招かれることもあろう。その時何の芸もないのも興醒めなことだと思ったからです。そして乗馬、早歌がかなりの域に達した頃には年を取りすぎて、経を習うことが出来なくなってしまった、と言う内容です[第188段]。日本で働く司祭たちが、こんな「本末転倒」に陥ってはなりません。
 この世のことに通じようとするあまり、神のこと、聖なること、霊的なことに疎くなり、聖職に就いている者としての味、その人の存在と言葉が神の現存を感じさせるような雰囲気が薄れるならば、神と人との間の橋になることはできません。日本の教会が必要としているのは、乗馬や早歌ができなくとも、神との親しさに生き、神の聖旨を識別し、実行していく司祭、祈りの人、神の人とも言える司祭ではないでしょうか。
 イエスは、受難を目前にして、極みまで愛された弟子たちのために祈られました。「私がお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。(ヨハネ17・15-17)」
 受肉されたキリストは、世のまっただ中にありながら、世に属している者ではなく、御父に属する「聖なる者」でした。そして、ご自分の弟子たちにもそうなるよう望まれ、そう祈られました。この祈りが、すべての司祭たち、そしてキリスト者たちの上にも実現していきますよう、イエスの聖心をこころとしながら祈りましょう。