2012年10月  1.コラジン、お前は不幸だ
 10月がやって来て今日は初金曜日ですが、ミサの福音では、最初からキリストは叱っています。「コラジン!お前は不幸だ。」(ルカ10・13-16)全世界に福音を宣べよ、と命令されるキリストが、なぜこのように叱るのでしょう。コラジンはガリレア湖の北に位置し、小麦で有名な地域です。おそらく、豊かな富める町でしょう。そこでは、キリストの「貧しい人は幸いである」とのみことばが拒否されたのでしょう。
 今月の「きょうをささげる」の意向は、福音宣教を思いめぐらしています。特に、一般の意向は「新しい福音宣教」を強調しています。伝統的なキリスト教国では教会離れが進んでいるので、改めてキリスト教国においても福音を宣べ伝えようというのです。
 ところで、新しい福音宣教とは何を目指しているのでしょうか。9月10日は日本205福者殉教者の記念日でした。その一人で、1619年11月18日に長崎で殉教したイエズス会のブラザーレオナルド木村は、1550年に平戸で聖フランシスコ・ザビエルから洗礼を受けた木村一家の孫で,更に1622年に同じ長崎で殉教(元和の大殉教)した、日本で最初の司祭セバスチャン木村のいとこにあたります。日本の福音宣教は、1549年8月15日に聖フランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来したことが始まりですが、翌年には最初の洗礼があり、しかもその人の孫といとこが、殉教者として神に生命を捧げるのです。
 聖フランシスコ・ザビエルは、どのようなメッセージを日本にもたらしたのでしょうか。彼の日本語は、たどたどしかったのです。それでも「貧しい者は幸せ。泣く者は幸せ」とキリストの福音を宣べ、実際に貧しい人々に自分の信仰を行いで示しました。聖ヤコボが指示する通り、「行いが伴わないなら、信仰は死んだもの」(ヤコボ2・17)なのです。
 新しいとは、新しく作るものではなく、最初から生きているものに更に生命を与え、実を結ばせることなのです。新しい福音宣教を心に置いて、この一週間を過ごしてまいりましょう。