2013年1月  3.一人ひとりは神の似姿
 典礼の暦では、6日に「主の公現」を迎え13日には「主の洗礼」を祝います。主の洗礼の出来事は第二の公現と言われています。第一の公現は、馬槽(うまぶね)に眠っているイエスが、はるばる星に導かれて砂漠を越えてきた三人の博士に、嬰児(みどりご)として出会いました。洗礼の場面は罪人としての公現です。洗礼者ヨハネが驚くのも無理はありません。歴史上世界で唯一人、罪の汚れのない神のみ子が、罪のゆるしを求めるのです。あわてて押し止めるヨハネに、イエスは「今は、止めないでほしい」(マタイ3・15)と答えています。そしてイエスが洗礼を授かると「これはわたしの愛する子」と天からの声がひびきました。
 洗礼は神の最大の賜物です。秘跡の門です。日本は270年の禁教令にあっても、浦上キリシタンが教会を守り抜くことができたのは、信徒が信仰共同体(コンフラリア)として洗礼を正しく授けていたからでした。「主の洗礼」の福音で、主は苦しむ人に「よろしい 清くなれ」と手を差しのべて清くされました。真福八端の中で「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」(マタイ5・8)と宣言されたキリストは、自らそれを実行されたのです。病人は清くされて何を見たのでしょうか。人となられた神ご自身の気高さを見たのではないでしょうか。

 さて、今月の日本の意向は「女性の尊厳」です。DV(ドメスティック・バイオレンス)、セクシャルハラスメントが取り上げられています。この女性に対する人権侵害は、人間の尊厳の意味、つまり、人間が一人ひとり神の似姿だという、信仰の秘儀が理解されないことによって生じるのではないでしょうか。世間的欲望のために、人間の本当の姿が見えないのです。
 創世記の始めに「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」(1・27)と宣言しています。実に崇高な言葉です。そして「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(1・28)との祝福も与えられました。しかし人間は男と女の関係を欲望の奴隷にしてしまったのです。
 今改めて、神の似姿である人間とは何かと、自らに問いかけ、特に「女性の尊厳」が大切にされる社会となるように祈り、この一週間を過ごしてまいりましょう。