2013年9月 1.信仰の生における、沈黙と語り |
「沈黙の静けさがすべてを包み、夜が速やかな歩みで半ばに達したとき、あなたの全能の言葉は天の王座から、情け容赦のないつわもののように、この滅びの地に下った」(知恵18・14-15)。 わたしたちの信仰によってつちかわれて成長する「生」は、その長い道程において、様々な社会的かつ人間相互の関係から成り立ってくると言えるでしょう。同時に、移りゆく諸々の脈絡に身を置きながらも、自らの誠実さと真意をもっての応答がするべき「語りかけてくるもの」によって、いつもまた覚醒させられる境涯をたどるとも言えるでしょう。これは、信仰者が自らの生き方の基盤をもちながら、新たな力をいただいた「恵みの出来事としての自己」に目覚める積極的促しと、とらえることができます。 音声を必要とすることなく「語りかけてくるもの」に、ただただ向き合う沈黙の内からの応答を、マルティン・ブーバー(20世紀前半に生きたユダヤ人の宗教哲学者)は「対話の原型にして生命」とし、真の宗教とはこのような対話の可能性の中で直接に生かされている単純なすべてであると述べています。イエスは弟子たちに与えた知恵の教訓の中で、「人の口は心からあふれ出てくることを語る」(ルカ 6・45)と教えられ、またあるキリスト教的霊性の巨匠は、「イエスが魂の中で語ることを願うなら、魂はただ独りでいなければならない、イエスが語るのを聞こうとするなら、自らは沈黙しなければならない」と言っています(マイスター・エックハルト「ドイツ語説教 No.1」)。 心と魂における全き沈黙は、わたしたち一人ひとりを、通常は覆われている無基底的な深淵へと連れ戻し、「神だけが出入りし、その言葉が現成する」限りなく深いところにある自己を明け拓くのです。この沈黙の「深き淵」(詩編 130)に表されているように、神の無尽蔵な創造は、具体的な「生」の日常において、わたしたちが語ったり行ったりする営みのそれぞれに、息吹き続けています。 沈黙の味を味わい、そこでしか出会うことができない神との交わりを大切にして、この一週間を過ごしてまいりましょう。 |