2013年9月  2.試練の中で生き抜く信仰
 21世紀の今日の状況において、キリスト者の信仰はどのような試練の中にあるのでしょう。確かに、政治的な枠組みでの宗教的非寛容や、イデオロギー統制による圧迫(例えば、北朝鮮)、また諸宗教間の争いの中で、キリスト教信仰者が精神的にも身体的にも迫害を受けている事態(例えば、ナイジェリア、南スーダンなどのアフリカ諸国)は、日本や欧米社会の状況から眼を転じて世界各地の教会の苦悩に少しでも肉迫するならば、枚挙する暇もありません。このような生死をかけた、そしてその信仰が来る日も来る日も問われるような試練の中にある「キリストにおける兄弟姉妹」のために、私たち日本の教会とキリスト者たちはミサの中の共同祈願の中で誠意を込めて祈り、あるいはこれらの兄弟姉妹のために実践的に何かできることを願い求めることを止めてはならないでしょう。
 しかしまた、世界各地で苦境や迫害の試練の中にありながら信仰を生き抜く兄弟姉妹の姿と心に触れる時、私たち自身の信仰もその真実さへともう一歩深く目覚めさせられ、神ご自身のゆるぎなき「慰め」に与かっているのです。パウロが宣言するように、「わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです」(二コリント1・6)。これはキリストへの信仰を同じくする私たち一人ひとりのいのちに開かれる霊的連帯であり、その霊的波及は教会の長い歴史に刻まれた「多くの殉教者たちの信仰の証し」を今日私たちの教会で息吹くいのちの中で受け止め、神の愛に自己を明け渡すまで達しています。そこで私たちの日常にあっては、神から与えられた生にまとわりついてくる労苦・難問の試練も、謙虚に受容することができるでしょう。