2013年9月  4.沈黙の意味
 西田幾多郎(1870〜1945)の言葉に、「幾千年来我等の祖先を育み来った東洋文化の根柢には、形なきものの形を見、聲なきものの聲を聞くと云った様なものが潜んで居るのではなかろうか。我々の心は此のごときものを求めて已まない」(『働くものから見るものへ』1927年 序文)という有名なものがあります。西洋の精神を大きく規定した古代ギリシャの知的探究とヨーロッパ近代の科学的学問性の影響下で、私たちの生活文化は今日に至るまで、視覚映像の豊穣さと溢れる情報に翻弄(ほんろう)される状況に陥りがちです。けれども、西田が指摘している日本的霊性についてばかりか、ユダヤ―キリスト教信仰の伝統は、むしろ神の言葉に聞き入るための沈黙の内に「聲なきものの聲」が響くのを待ち望むという精神的姿勢に貫かれたものであると言えるでしょう。
 旧約伝承の印象的な箇所に、預言者エリヤが洞穴を出て神の言葉を授かる場面があります。――「主は、『そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい』と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた。主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。それを聞くと、エリヤは外套で顔を覆い、出て来て、洞穴の入り口に立った。そのとき、声はエリヤにこう告げた。『エリヤよ、ここで何をしているのか。』」(列王記上 19・11-13)
 プロテスタントの旧約聖書学者である関根正雄氏は、「静かにささやく声が聞こえた」の箇所を「かすかな沈黙の声があった」と訳されたそうです。この「沈黙の声」を受けとるところから、エリヤの再生が始まり、彼に新しい使命と展望が授けられるのです。いかなる事象や人間の理解内に解消される出来事の内で神の不在が体験されることを通して、人間的生の沈黙の内に「神の言葉」は現成を果たすのです。
 沈黙を意味を捜し、沈黙を味わう日々を過ごしてまいりましょう。