2013年10月  3.諸宗教の尊厳
 今月の日本の教会の意向には、「諸宗教の尊厳」が掲げられています。思えば、山陰地方で教会司牧に従事していた頃、会議や集まりで列車に乗るたびに、窓から見える景色を眺めて思うのは、実に日本は神仏混淆の国だということでした。いたる所でお寺や神社の鳥居が目に入ります。春や秋には幟(のぼり)をつらねて祭りを祝っていたり、さらにお寺の前には葬儀の列が並んでいるのを目にすることもあります。
 聖フランシスコ・ザビエルが日本に来て驚いたのは、水子地蔵が道端にたくさん並んでいることでした。聞けば、家が貧しいために産んでも育てられず、水子にして流してしまって、その子の魂に花を供えて供養しているというのです。聖フランシスコ・ザビエルは拙い日本語で「貧しくても産みなさい。皆で力を合わせれば育ちます。人間は兄弟です。」と励ましました。ですから、貧しい人の傍には「あの西洋の坊さんがいて協力してくれる」と同じ信仰を求めて洗礼を受ける人も多かったのです。戦前のカトリック要理には、「人に最も大切なものは宗教で、宗教とは神に対する人の道である」とはっきり記されています。現代の日本では「陽が暮れて道遠し」で、道を求めて迷っている人が多いのです。その人々に救いの道を示そうとするのが宗教です。神仏混淆と一口に言っても、諸宗教が現世利益の求めに応じて、競う姿が見えてきます。そのために人々はかえって「宗教離れ」をしてしまうのではないでしょうか。現世利益の宗教では、信徒争奪戦さえ起きてしまい、そのような状況では、まことの道がますます見えなくなってしまいます。
 東日本大震災で見えてきたのは諸宗教が力を合わせて人々の苦しみと向き合おうとする姿でした。若い宗教家の中にはそれを真剣に考える人も多くなりました。苦しむ人々と向き合う時に自ずと一致が生まれて、そこにお互いの尊敬が生まれてくるのです。
 さまざまな諸宗教が共存する我が国を思い、その中で互いに尊重し合い、平和の実現を目指して、共に力を合わせていくことができますように願ってまいりましょう。