2013年11月  4.「信仰年」の実り――天の御父
 ご自分に似せて造って(生んで)くださり、現に育ててくださっている父である神の実存は、事実として、ある程度分かりますが、実父としての存在は、人間として、認識能力の欠如から、信仰に頼らざるを得ません。また、生きていくに必要な、大自然が示す自然現象も、自然科学ではまだ理解できない事象も、秩序の中にまだたくさんあります。これらに直面して、ただただ、素晴らしさ、壮大さ、あるいは、緻密さに、感謝の念で、過ごさせていただいています。大自然は、美しい!すごい!秩序正しい!神聖だ!などと、それぞれの被造物の前にして思わず口にしますが、この「大自然」という表現は、天地の創造主である御父のみ業であることをかたく強く信じています。
 第二バチカン公会議の50周年を機に、2012年10月から今月の24日までを『信仰年』として、信仰を見直し、強めていくように打ち出されました。これは、日本の教会の意向としても打ち出されました。思うに、日本社会は、昔からいろいろな宗教が、いろいろな国などから伝わってきて、大きな影響を受けています。そのためか、いろいろな儀式の時は、「黙祷」が必ず打ち出され、宗教や思想のいかんにかかわらず、老若男女を問わず、その場で、スポーツ選手も、仕事場で、病床で、真剣に「黙祷」をささげます。これに応じない人、騒ぐ人、ソッポを向く人はいません。ここに、天の御父が、一人ひとりに与えられ、刻まれている、「良心」に向かって、お経や、祝詞、などが、あるいは、沈黙が真剣にささげられているように思われます。つまり、日本人は皆、天の父に心を向けているように思います。「なにごとの、おわしますかは、しらねども、かたじけなさに・・・」との心境にあり、御父への心へ向けられていると思います。
 御父が、子としての願い、感謝、叫び、そしてすべてを、お受け取りくださいますように。