2014年2月 2.高齢者が尊重されるために |
高齢になった方々の暮らしが困難をきたしているのは、経済危機にも大きな原因の一つがあると言えるでしょう。若い時には力があり、将来の計画を立てることができました。ところが高齢者になると、時々悲しそうな目で、自分とその周りを見ている方が多いように思われます。 しかし、人生のどの時期にあっても、神の恵みと祝福が注がれています。ですから、年をとってからでも、神の現存を信じ、その年齢に達した時にこそ得られる富を発見すべきでしょう。それは、長い人生の歩みによって重ねられた恵みです。表情には神に愛されている喜びが溢れ出てくるでしょう。社会では年寄りは役に立たないと考えられているかもしれませんが、聖書の中では、高齢になることは神の愛と祝福の実りであると教えられています。その社会の文明の成熟度は、高齢者に対する取り扱いで計ることができるでしょう。 イエスはペトロに向かってこう言いました。「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ21・18)。この言葉はペトロの殉教の預言ですが、同時に高齢者にとって援助を受ける必要について反省をうながされます。確かに、他の人々から支えられ、その愛情を感じるのは恵みです。人生のどのような時期でも、だれも一人だけで生活することができません。人間は「関係し合う存在」です。援助を与え、援助を受け、私たち皆は大きな家族であり、その生命力は愛です。ですから、高齢者は毎日が長く空しく、困難が多く、出会いが少ないと、がっかりしてはいけません。社会は高齢者の病と苦しみを必要としています。それによって社会はより人間的になり、情け深くなりますから。 高齢となった日々は、神との対話を深める時期でもあり、家族・友達・教会と社会の人々のために執り成しの祈りをささげる時期であります。世界から戦争と暴力がなくなり、平和が訪れるようにと祈る高齢者は、世界を見守る人々になることができるのです。 高齢者に思いをいたし、充実した日々を送ることができるように、助け、支え、励まし、そして祈りをささげる一週間といたしましょう。 |