2014年3月  3.つながって生きる
 今日も、目をつぶり、心から祈りを捧げます。2011年3月11日に東日本大震災が生じました。3年ほどの歳月を経た私たちは、改めて「人間同士のつながり」の大切さをかみしめています。大切な人を亡くしたときの虚脱感。そして、誰かから助けの手を差し伸べてもらえたときの喜び。つまり、「人間同士のつながり」があるからこそ、私たちは大切な相手の死を受け容れられないほどの悲しみに襲われます。そして、「人間同士のつながり」があるからこそ、私たちは見ず知らずの人からの助けによって生きる希望をいだくことになります。
 辛いことも、幸いなことも、どちらにせよ、「人間同士のつながり」のもとで生じてくるものなのです。とするならば、大切な人を失った私たちが立ち直るには、やはり誰かとのつながりを築き上げていくしかないのです。否定的な経験を肯定的な経験へと転換させていく積極性は自力では身につけることはできません。しかしながら、誰かがそばにいて、いっしょに立ち上がってくれる場合に、「私はひとりではない、味方がいる」という感慨が自分を奮い立たせる確かな力となります。「ともにいる相手」の存在こそが、私たちを絶望のどん底から立ち直らせます。私たちキリスト者が信じている神は「私たちとともにいてくださる神(インマヌエル)」なのです。
 この世のなかで、いのちは、支え合うことで豊かに発展していきます。ひとりひとりの個別のいのちが響き合うことで、大いなるかかわりの連鎖が深まります。この世に生きるあらゆるものの全体の流れをつつみこんで慈愛のうちに支えるのが神です。神はあらゆるものをつつみこんで活かします。その神の慈愛を目に見えるかたちでしっかりと示したのが、イエス・キリストでした。二千年前、イエスはガリラヤ湖での吹きすさぶ嵐のなかで弟子たちを勇気づけました。さまざまな草花が萌え出でる風光明媚なガリラヤ湖周辺は、時として嵐に巻き込まれることもあったのです。しかし、自然環境がどのように荒れようとも、イエスは、しっかりと弟子たちのそばにいて支えました。東日本大震災の忌まわしい被害の爪痕は私たちの心の傷として、いまだに残っていますが、そういう嵐の吹きすさぶ困難な状況のまっただなかでこそ、イエス・キリストは私たちとともにいてくださいます。――この確信をキリスト者は先祖代々受け継いで生きています。東北地方のキリスト者たちが、今日も、めげることなく前向きに生きていこうとしている姿を聞き及ぶにつけて、私たちもまた諦めずに誰かを支えていこうという決意を新たにするのです。