2014年4月  3.新生活の希望
 4月の日本の教会の意向は、「新生活の希望」で、私たちの教会共同体が新しい環境で暮らし始める方々の支えとなりますようにと、祈るように勧められています。
 日本の文化は、地方の特色がとても豊かです。それぞれの地方に伝統の味があって、それが大切にされてきました。地方の町並みは、住宅街から商店街へと連なっていますが、商店街にはいわゆる「のれん街」があって、伝統の味を守っているのです。また、住宅街でも「向こう三軒両隣り」と、お隣り同志は親しく付き合っていて、豊かな共同体を営んでいるのですが、それだけに、よそ者を入れない風習も色濃く残っています。
 そのような中では、いわゆる転勤族の子どもたちは仲間に入れてもらえずに、孤独を味わうことも多いのではないでしょうか。また、方言や風習に馴染めないので苦しむ子どももいます。封建時代には、関所文化といって、藩ごとに地方が分断されていましたが、現代においてもその風習が残っています。そして、「郷に行ったら郷に従え」とその地方の人々にならなければ、なかなか受け入れてもらえないのです。
 仏教徒向けの雑誌「大法輪」が3月号で「キリスト教とは何か」という特集号を出しましたが、その中でイエズス会司祭の岩島忠彦師が、「キリストは人となった神である」とはっきり断言しています。ですからキリストの行いは「父なる神のみ旨」なのです。そしてカトリック教会はキリストの神秘体です。したがって、人間は根本的に「きょうだい」であり、共同体の一員なのです。よそ者を差別したり、区別したりするのを当たり前のように生きている今の日本の現状にあっては、「きょうだい」であるという認識はとても大事なことです。
 キリストは「私の業(わざ)を信じなさい」と言われましたが、信仰とは信じたことを言葉にし、言葉にしたことを行うことです。ですから神の御子は幼児として貧しく生まれ、三十年近くをナザレトで職人の子どもとして育ち、私たちに自ら歩く姿の模範を示されたのです。ある保育園の子どもたちが、ある日聖堂で無邪気に大声を張り上げて歌っていました。「どんなに寂しい時にも、どんなに悲しい時にも、イエス様が一番、イエス様が一番」。それに対して先生方が「なあぜ?」と合いの手を入れると、「だってイエス様は神さまだもの、だってイエス様は神さまだもの」と声を張り上げていました。その場にいた一人の先生が思わず泣き出した光景は、忘れられません。子どもにとっても、大人にとっても、幼子として生まれたイエスは、どんなにか身近な存在だったことでしょう。
 教会共同体が信頼を回復するために、信徒には、よそから来ている人々、特に、今は「外国」と言われている国々から来ている人々を、同じ神の子どもで、みんな同じ人間として愛し合うように求められています。「新生活」で戸惑っている人を暖かく迎え入れることを心にとめて、この一週間を過ごしてまいりましょう。