2014年4月  4.マルタのように信じて
 典礼の暦も聖なる過ぎ越しの三日間、復活祭、そして復活節へと進んでいきます。聖金曜日の福音では、ヨハネによる主イエス・キリストの受難が朗読されます。生前にキリストはマルタに「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも決して死ぬことはない。このことを信じるか」と問われ、マルタははっきりと「信じております。」と答えました。(ヨハネ11・25-27)
 戦争中、学徒出陣で生命の危機を身をもって体験していた佐古純一郎師は、8月15日の突然の終戦に茫然とし、復員しても自分の部屋の閉じこもり、これから何を信じて生きればよいのかと机の前に座りこみ、動く気もしなかったそうです。そして机の上に置かれていた聖書を手にして、偶然開いた箇所がラザロの復活でした。佐古純一郎師はマルタの力強い返事に衝撃を受けて、改めてキリストの教えを学び、洗礼を受けて牧師となったのです。
 受難の朗読の中でもキリストは十字架につけられる前に裁判を受け、ピラトにはっきりと「私は真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た」と断言されています。それに対してピラトは「真理とは何か」とつぶやくのです(ヨハネ18・37-38参照)。
 「真理とは何か。」今の日本は、佐古純一郎師が体験した時によく似ています。何を信じたらよいのかと茫然と歩いたり、また、閉じこもったりしてしまう青少年が目立ちます。まるで暗闇の中を歩いているかのようです。その暗闇を照らすように、キリストの声が響きます。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14・6)そして、すべての人々の救いのために十字架につけられ「成し遂げられた。」(ヨハネ19・30)と息を引き取られたのです。
 マルタの力強い信仰にならって、真理であるキリストを信じる心を持って、受難・復活を祈ってまいりましょう。