2014年9月  1.神のいつくしみの仲介
 今、世界中で精神的疾患に苦しむ人々がどれほど多いか、とてもはかり知ることはできません。日本の社会でも、重度精神障害で家庭での生活さえもままならず、入院したまま人生の日々を重ねる方々が老若男女を問わず多数おられます。私たちの友人や知人である場合には、なおさら、できる限り一人の人格として向き合って接しようと努力しても限界があることでしょう。ですから、そのような病いに見舞われたお一人おひとりの人生のために、救いの成就とご家族の安らぎが訪れるように繰り返し祈ることは、キリストを信じる各人の大切な務めでもあります。
 周囲には、病気の診断が下されていなくても、精神的に病んでいる、あるいは精神的に深い傷を負っている方々がたくさんおられ、そのような方々と実際に関わっておられる方も多いでしょう。心療医学が発達した今日では、たとえば、教育現場である大学にはカウンセリング指導のセンターが設置されていることが多く、精神的に病んでいる学生の個々のケースは専門的な知識と実践上の経験を積んだカウンセラーに委ねることが必要と考えられています。専門のカウンセラーと連絡をとることなしに、一人の教師が心因性の病いに苦しむ一人の若者の複雑な問題に親身になって接するだけでは、本人の治癒のために決して十分と言えないばかりか、正しい指導のあり方ではないことも周知されてきています。実際に、うつ病や統合失調症、また、発達障害で苦しんでいる学生・若者は多いのです。
 しかし、彼らが計り知れない神ご自身の「まことのいのち」の神秘の内に抱かれている、という真実を深く受け止め、祈りをささげてまいりましょう。その時、次のイエスの言葉が人間であることの深淵から響いてくるでしょう。
 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。(マタイ11・28-29)」
 神ご自身である癒しの息吹は、「われ深き淵の底より叫ぶ」(詩編130・1)人間の赤裸々な精神に、必ず浸潤してゆくことを願い、心に留めながら過ごす一週間といたしましょう。