2014年9月  4.貧しくされた人々への福音の奉仕
 私たちが生きる21世紀においても、貧しい人々、特に極貧の非人間的な生活を強いられる人々の現実が存在しています。極貧の生活環境を生み出した要因を探求したり、貧富の格差を広げていく不正義を告発することは、必要な補助手段で、決して無駄な努力ではありませんが、キリストの福音は、貧しさへと追いやられた人の心の生活に、直(じか)に染み入ろうとするものであることを忘れてはいけないでしょう。人間から尊厳を奪い取り、非人間的な生へと陥れる悪の勢力にたいする、キリストの絶えざる抵抗と戦いは、このような貧しくされた人々と共に、自分をそれと同じ状況におく神の慈愛の徹底した現れです。キリストを信じるすべての人が、神の自らへりくだる姿勢にならって、自分の栄達や名誉も、また執着や競争心など持てるものをすべて手放すとき、貧しくされた人々に直に臨む神の限りない愛の生ける「しるし」となるのです。「大悲大慈(一切衆生の苦を取り除き、楽を与える広大無辺な慈悲)」は、貧しい者における神の働きに対する無防備さを、人間存在の依って立つ普遍的地平であることを気づかせてくれます。
 10年ほど前から、「ワーキングプア」と呼ばれる、働き盛りの人々が必死に働いても経済的に豊かになれない現実が、日本の各地で起きています。地方の青年層や農家、今は衰退の傾向にある伝統的職業に従事する人々、そして大震災と原発事故の影響で故郷を追われ、培われた人間関係や職業を奪われた人々など、それぞれが置かれた状況は多様です。世界全体に目を向けると、シリアを初め中東の数多い難民の家族、アフリカの飢餓と貧困などなど、どこまでも底の知れない貧しくされている人々がこの同じ時を生きています。経済機構の歪み、大国のエゴ、搾取を繰り返す人間の巨大な欲望 ……このような諸要因に再び反省の目を向けると共に、人間の条件を奪い取る悪の勢力に打ち勝つ「福音への奉仕の道」は、これからどうように具体化されるのでしょうか?
 私たちの信仰と祈りの連帯によって、精神的にも身体的にも虐待を被った人々の心に癒しをもたらすキリストの見えない力が、少しずつでも働くようにと祈りましょう。そして、先ず自らが福音の息吹に生かされるように求めましょう。