2014年10月  1.テロ組織との和平
 今年、第一次世界大戦の開戦から100周年を迎え、国と国とが戦争を始めないために、意見交換と情報共有がいかに大切かが、改めて確認されています。情報伝達技術(IT)やコミュニケーション手段の急速な発達によって、直接双方向の情報が瞬時に届くようになったことは、国家と国家の対立や戦争を防ぐ、大きな力となっています。ウクライナのある地域ではいまだに戦闘が続いていますが、そのことについての意見が対立している日本とロシアの首脳は、直接電話で対話して、双方の意見を交換し、首脳会談の可能性についても調整しました。
 戦争は、合法的殺人の一つです。戦争状態にあっては、兵士が兵士を殺害しても罰せられることはありません。しかし、死刑と並ぶこの合法的殺人は、人間の尊厳を踏みにじるもので、人道的には絶対に認めることができません。ましてや、兵士は民間人をも戦闘に巻き込んで殺戮を繰り返していますから、言語道断です。
 戦闘が勃発する状況に、変化が現れています。国家と国家の軍隊が衝突する国際紛争は、国境地域での小競り合いを除けば、非常にまれな出来事となりました。兵士が武器を手に敵の兵士の殺戮を行う状況は、内戦とテロという、100年前の世界情勢からは予想だにしなかった形態へと、変化しているのです。経済格差が広がり貧困による生活苦が深刻になると、国内政治に対する不満が蓄積され、民主的方法でその不平等を解決することができない場合には、不満分子は力、つまり武力によってその政権を打倒しようと、反政府の組織された軍隊をもつほどになってしまうのでしょう。
 ある共通のつらさや苦しさやの体験を伴った、現体制に対する不満が、国の枠を超えて蓄積され、これもまた民主的方法によってその不満、不平等を解決することができなくなった場合、テロと呼ばれる暴力的破壊活動に発展してしまうのでしょう。国家と国家の戦争を抑止するメカニズムができあがっていますが、テロの勢力と交渉する仕組みすらありません。テロに対しては、ただただ対抗する手段しかもちえず、現体制側も武器をもってテロリストを殺戮しているのです。
 宗教が原因ではありません。「自分たちの不平不満が共通のもので、人間としての権利が侵されていて、その状況を打破するためには敵を殲滅(せんめつ)するほかにない」という論理を納得させるために、宗教が利用されているのでしょう。太平洋戦争前の日本が、宗教を利用して国民を戦争へとあおったのと同じメカニズムでしょう。
 テロで人のいのちが軽んじられることがないように、祈りましょう。教皇フランシスコが語るように、人間の知恵の限りを尽くしても平和の道が開かれず実現できないなら、私たち人間には、神に祈ることしか残されていないのですから。祈りは決して無駄ではありません。
 「イスラム国」に関連した無謀な殺戮を、祈りの力で鎮(しず)めてまいりましょう。