2015年3月  1.科学と信仰
 物事の道理を解明して、どのような条件が整うと何が起こるのか、つまり因果の関係を証明し、それを積み重ねて論理を組み立てることが、科学が科学たる所以(ゆえん)です。たった一度だけしか起こらなかったことは、科学としては認められません。昨年話題になったSTAP細胞も、実験でその生成が再現できなかったので、論証できないと判断されたのでした。
 その科学には、価値が内包されていません。自然科学だけではなく、社会科学においても価値から自由な存在なのです。むしろ科学的な検証を行っている際には、私たちのもっている善悪や美醜のセンスを、極力排除しなければ、客観的な論証ができなくなると、研究者たちはその大切さを強調しています。
 ところで、科学的研究の結果を利用するのは人間です。人々の幸福と繁栄のために、科学的研究の成果が用いられるべきなのです。ところが、人間がその科学的研究の成果を誤って用いるとすれば、たいへんなことになってしまいます。今年、広島と長崎の被爆から70周年を迎えますが、原子核分裂を研究した人は大量破壊兵器として用いられることを、大いに危惧したことでしょう。破壊的なエネルギーが得られるという原子核分裂を、人類の幸せのために用いることは絶対に叶わないのです。その過程で、有害な放射性物質が精製され、その処理には千年を超える時間が必要だからです。科学がいけないのではなく、科学を使う人間の愚かさがいけないのです。
 教皇は、科学者が人間の幸福のためにはたらくことができるようにとの意向を掲げています。科学者が結果として幸福と繁栄のために、先端的な研究を進めることを願うのは、人として当然のことでしょう。しかし、科学の平和利用の責任を、科学者だけに追わせておく訳にはいきません。すべての人が、それぞれの立場で、一瞬一瞬を悪を退けながら生活し、科学的成果が決して殺人や戦争に用いられないように、小さな努力を積み重ねていくことが求められるでしょう。
 価値を内包しない科学を、価値あるものとして用いるのは、一人ひとりの責任です。この重みを受け止めながら、四旬節の日々を、心を神に向けて、歩んでまいりましょう。