2015年5月  3.世俗化した文化に暮らすキリスト者
 私たち人間は、狩猟・農耕の営みの中に暮らしてきた頃より、いのちの連鎖を織りなして歴史を綴ってきました。その日々は、食事をとり、睡眠をとって、自らの生命の営みを保ちながら、自分のすべてを隣人と分かち合いながらの積み重ねでした。
 いのちあるものの宿命は、食さないと死ぬことです。この食と、衣と住を自分で確保する生活を、教会では「世俗(セキュラー)」と言ってきました。交換経済が発達し、そして貨幣経済が一般化し、それが国際的な通貨として世界中で価値を持つ現代に至っても、職業生活を通して報酬や賃金を得て衣食住を整えていく営みは、家庭にとって欠くことができないものです。
 一方で、神への奉仕に自分をささげる人の、いのちの営みを保持する責任を解放して、もっぱらそのことに専心できるようにと、人類は歴史上、古くから宗教者の生活の営みはその共同体で支えてきました。この領域を教会は「聖(ホーリー)」と言ってきました。極論すれば、聖なる使命をいただいている人々は、皆「乞食」であり、仏教ではそのことを「比丘(僧侶)が自己 の色身(物質的な身体)を維持するために人に乞うこと」としてきました。ですから、世俗に生きる信徒は、聖に生きる司祭・修道者の生活の維持の責任を持っていることになります。
 さて、今月は、教皇の福音宣教の意向「使命に開かれて」で、「世俗化した文化で暮らすキリスト者」のキリストを証しする使命について祈るように薦めています。簡素な暮らし向きで充分に、自分と家族のいのちを維持することができるのに、人の欲は、より豊かに、より豪華に、より便利に、より快適に、そして食に関しては、より美味(おい)しい、より贅沢な、より貴重なものへと、私たちを駆り立てていきます。
 地球の限られた資源やエネルギー、魚を含めた海洋生物など、地球全体が維持していくことができるようにと(サステイナブル)、国際的な活動も行われていますが、キリスト者にとっての基本は、何よりも「簡素」な生活でしょう。世俗に生きているので、経済的に豊かになれば、お金を出していくらでも贅沢はできますが、イエスを証しするキリスト者としては、生活を分かち合いながら、簡素に生きる道を、喜んで選び取ることが求められるのでしょう。
 「世俗」での生活を意識しながら、簡素な生活を心がけてまいりましょう。