2015年6月  2.困難の中にある家庭
 日本の教会は、6月の意向として、困難にある家庭を掲げています。私たちは誰でも、生まれた時に必然的にこの家庭のメンバーとなります。家庭の一人ひとり、父母、祖父母、兄や姉に迎え入れられて、その中で愛情を受けながら成長していきます。もちろん、両親の愛情を受けられずに育つこともあるでしょうが、それに代わるさまざまな人を通して、愛を受けながら成長していきます。
 その家庭のなかで起こっていることは、なかなか外からは見えません。家庭の一人ひとりの気持ちがすれ違っていて、分かち合う心、支え合う心が感じ取れなくなってしまったような家庭もあるでしょう。事業に失敗したり、一家の大黒柱が病気や事故で働けなくなって、経済的に困窮している家庭もあるでしょう。どんなに困難な状況にあっても、家族の誰かが外に向けて助けを求めなければ、その状況が分からないことが多いのです。
 ところが、家庭の中の弱さや苦しさを、外の人に知られたくないという気持ちは、誰もが持ち合わせているものなのです。ですから、何とか家庭の中だけで解決をはかろうとして、最悪の状況になるまで助けを求めない場合が多いのでしょう。特に、家庭内の暴力(ドメスティック・バイオレンスDV)の場合は、家庭の外にその状況が伝わるのは難しいのです。
 私たちは、個人としてもまた教会という共同体としても、「苦しみや悲しみを分かち合っても大丈夫ですよ」というメッセージを、常に発信していることが必要なのでしょう。そのためには、よく聞いて差し上げる姿勢と、聞いたことは解決のために必要こと以外は他言しない姿勢が、いつもきちんと貫かれていることがとても重要です。
 困難の中にある家庭の「困難さ」を解決することの前に、私たちは困難な状況を何でも分かち合える場作りを、大切にしたいのです。
 外からは見えにくい家庭の苦しみを、いつでも受け止めることができる心を願い求めて、一週間を過ごしてまいりましょう。