2015年6月  3.イエスとの個人的な交わり
 教皇は、福音宣教の意向として、「召命」をとりあげ、イエスと個人的な交わりが、召命への道だと述べています。イエスと個人的に交わるとは、どのようなことなのでしょうか。それは、祈りと黙想のやり方に、大きくかかわっているのではないでしょうか。
 父と子と聖霊の三位一体の神を信じる私たちは、様々な祈りをささげています。この「きょうをささげる」でも、「主イエスよ、きょう一日の祈りと働き……」で始まる定まった言葉を唱える祈りもしますし、一日を静かに振り返って、その日の出来事を味わいなおして思い巡らす祈りもあります。
 その中で、神が私自身のことを、個別に人格的に愛してくださっていると感じることがあります。イエスは、ザカアイに、徴税人のマタイに、マグダラのマリアに、マルタに、それぞれ個別に人格的にかかわり、その一人ひとりを愛してくださっていたのと同じように、私にもかかわってくださっているのです。そのかかわりは、祈りの中で三位一体の神に語りかけ、心を澄まして神の声を感じ取ろうとすれば、いろいろな感覚の中で味わうことができるのでしょう。沈黙を通して語りかける神の声を聞くには、物理的な沈黙に加えて、心の沈黙も不可欠です。そして、個別に人格的に、つまり、個人的な交わりの中で愛されていることが実感できると、神との対話が進み、神がこの私に何を望んでおられるかを、少しずつ感じ取ることができるようになります。つまり、固有の召命の呼びかけを受けるのです。
 多くの若者が、司祭や奉献生活者に召し出される機会を増やすには、教皇の意向のように、イエスとの個人的な交わりに若者たちを招き入れることが不可欠です。若者たちに、より多くの祈りの機会、黙想の機会が与えられることを願いながら、この一週間を過ごしてまいりましょう。