2015年7月  4.強行採決
 7月16日、国民が見守る中で、集団的自衛権の行使を容認する安保法案が、衆議院で可決されました。多くの野党は議場を退席した中で、言わば「強行採決」されて、法案は参議院に送られました。
 3週間前に、「政治にかかわる責任」と題して、世論や日本のカトリック教会の立場について紹介しました。平和憲法に違反していると明確に意見を述べる憲法学者も多く、昨日は日弁連(日本弁護士連合会)の理事会が、参加者の全員一致で採択した理事会決議を発表しました。その決議では、安保法案が集団的自衛権行使を容認していることなどから、「日本国憲法が定める立憲主義の基本理念、恒久平和主義や、国民主権の基本原理に違反している」と指摘されています。そして、強行採決は、「民意を踏みにじるものであり、到底容認できない」としています。
 民主主義が崩壊し始めています。選挙によって民意を代弁する議員が選ばれ、議会で充分議論を尽くして可否について多数決で採決する、議会制民主主義ですが、それが成立する条件として二つのことが重要です。
 まず第1に、報道の自由が確保されていることです。正しい情報がそれを必要としている人に届けられるという、このあたりまえなことが、実はゆがめられかねないのです。多くの独裁国家や社会主義国家は、情報をコントロールして、民意を押さえつけてきたという、人類の歴史がその危険性を示しています。過日、沖縄の新聞社について、自由民主党の勉強会で「つぶしてしまえ」といった発言があったことは記憶に新しいことです。「デマ」や「流言飛語」、「証拠ねつ造」などの手法は、未だ絶えることがありません。
 第2に、三権の分立です。立法府、行政府、司法府がそれぞれの活動を相互に監視して、暴走を制御する仕組みです。その司法府の一翼を担う弁護士の全国組織である日弁連の、総会に次ぐ議決機関である理事会が「強行採決」を批判している事態が起きていることに、憂慮せざるをえません。
 加えて、キリスト者として、ことの良し悪しを判断する時には、祈りの中で、その道は神が望んでいる方向かどうかを吟味する手続き、つまり「霊的識別」を欠くことはできません。識別をするならば、即座に「集団的自衛権の行使容認」は神の望みでないことが分かります。明解です。この方向は「いのち」の道に反するからです。ですから日本の司教団も、この法案に反対しているのです。
 今この時に、平和のために何をどのように祈ればよいか、そして、小さな一歩をどのように歩み出せばよいかを探し求めながら、民意が反映されて、この法案が成立しないようにと、心を合わせて過ごしてまいりましょう。