2016年3月  4.宗教の自由
 世界人権宣言が1948年12月10日の第3回国際連合総会で採択され、母の胎内でこの世の生命をいただいたすべての人は平等であり、また人間としての基本的権利が保障される時代が到来しました。ところが現実には人間の弱さがこの人権の理想を実現させる妨げとなっていることも、受け止めなければなりません。その最たるものが戦争・紛争で、殺人という人権の根本を奪い取る行いさえ、正義の推進の名目で公然とゆるされてしまうのです。
 さて、すべての人が差別を受けてはならないのですが、世界人権宣言は第二条の第1項で「すべて人は、人種、皮膚の色、性、言語、宗教、政治上その他の意見、国民的若しくは社会的出身、財産、門地その他の地位又はこれに類するいかなる事由による差別をも受けることなく、この宣言に掲げるすべての権利と自由とを享有することができる」と明確に表現しています。この項に「宗教」が書かれているということは、この「宗教」が差別の事由となった人類の歴史を踏まえてのことです。今日の社会では、原理として宗教の自由が保障されています。日本国憲法でも第20条で信教の自由と政教分離の原則をうたっています。
 教皇の福音宣教の意向では「迫害されるキリスト者」が取り上げられ、信仰を理由に差別され迫害されるキリスト者のために祈りをささげるように、私たちを導いています。この祈りをささげる時に、キリスト者である私たちが、他に宗教を差別したり迫害したりすることが起きないように祈ることも、とても大切になります。
 人間としての本性には、自分が最初に出会ったすばらしい価値が、唯一絶対的な価値であると思い込んでしまう性向が潜んでいます。「価値観の刷り込み」と言われる現象です。キリスト教に最初に出会うと、キリスト教が唯一絶対の宗教であると思い込んでしまうのです。そして、他の宗教について何も知らないにもかかわらず、それらを信じる人たちを差別したり迫害したりしまう弱さを持っているのです。
 宗教の自由はすべての人に与えられた権利であることをはっきりと受け止め、宗教を事由とする差別や迫害がなくなるように、祈りをささげてまいりましょう。