2016年7月  2.いのちの連鎖への崇敬
 教皇の世界共通の意向は「先住民族」です。歴史の中でその地にずっと暮らしてきて、気候にも風土にも適応した独自の文化を築いて、平和な暮らしを営んできた「先住民族」と呼ばれる人々がいます。そこに、他の地域から力の強い人たちがやってきて、その地を自分たちの都合のよいように使い、そこで暮らしてきた人々を追い出したりした侵略は、地球上に人類が誕生して450万年の長い歩みの中には、残念なことに繰り返し繰り返し起きてきた出来事でした。力の強い人たちは、武器や兵器を使い、そこで暮らしてきた人々のいのちを奪うことを、厭(いと)いませんでした。先住民族は、自分の故郷を失い、いのちからがら流民、難民としてその地を離れるほかに道はありませんでした。
 これは、過去の出来事ではありません。世界中がインターネットでつながり、情報が国境を越えて飛び交う21世紀になっても、強い人たちが「先住民族」を苦しめている状況が続いているのです。人の流動化は著しく活発になりました。民族や人種を越えた婚姻も珍しいことではなくなりました。でも、暮らしを破壊され、逃げ惑う人々が絶えないのです。
 ある限られた地域で暮らし、独自の文化を育み、人類の長い歴史の中で固有のいのちの連鎖をつないで生きてきた人々の数は、通常それほど多くありません。ですから、「先住民族」は同時に「少数民族」であることが多いのです。したがって、多数の意見で物事が決まってしまう今日の民主主義の政治形態の中では、自分たちの存在の独自性を主張することがますます難しくなります。
 今日においても、「先住民族」がこのような状況におかれていることに思いをいたして、彼らの存在が神の業の証しであることをしっかりと心に刻み、ともに尊敬しながら平和に暮らしていくことができるように、世界の教会、世界の人々と心を合わせて祈ってまいりましょう。