2017年7月 2.冠婚葬祭と神の現存 |
教会から離れてしまった若者たちを、再び教会に来るようにうながすことは、決して容易なことではありません。人生における重大な岐路に立たされたときでも、あるいは大きな苦しみや深い悲しみを経験したとしても、人間が積み上げてきた知恵によって、何とか乗り越えることができてしまう時代なのでしょう。「神なき時代」と呼ばれる今日の苦しみや悲しみは、神にしか頼ることができない素朴な人々が生きた時代とは比べることができないほどのものなのでしょうか。 人々が経験する最も辛く悲しい出来事は、愛する人の死だと言われています。たとえ天寿を全うするほど長生きをしたとしても、あるいは生まれて間もない子どもが亡くなったとしても、一人の人間のいのちが閉じられるということは、計り知れない大きな出来事なのです。死に直面すると、この世でいのちをいただいたことの意味を思い巡らします。そして、私たち人間の手ではどうすることもできない死という出来事の中に、はかないいのちの対極にある大いなるものの存在、神の現存を感じるのです。いのちを神にお返しして、天の国での永遠の憩いを願う葬儀ミサが教会で行われるとき、そこに参列するすべての人は、永遠のいのちに招かれていることを改めて感じ取ります。冠婚葬祭が、宗教儀式として執り行われる意味は、人間のいのちのはかなさを思い起こしながら、大いなるものに帰依し、この世と、そしてあの世での安寧を願う純粋な気持ちの現れではないでしょうか。 若者が自分の意思で教会に足を運ぶのを待っていても、教会離れは解消できません。とすれば、祖父母の死、親の死に際して、葬儀がきっかけとなって教会の聖堂に集った折に、愛する人の永遠の憩いを願う対象として、「神」を意識できるようにと配慮をすることが肝要でしょうか。 冠婚葬祭の二つの場面、当人の結婚式、そして愛する人の葬式が、若者を教会に呼び戻す最大のチャンスだと言われています。ですから、冠婚葬祭の行事が教会で行われるとき、神がその存在を示してくださるようにと祈ることも、とても大切です。 冠婚葬祭の儀式の中で、神が若者の心に触れてくださるようにと祈る一週間と致しましょう。 |