2018年4月  1.排他主義
 排他主義ということばは、そもそも自分の仲間以外を排斥する性向を指しています。人間は、父と母が営むある家庭に生命をいただいて生まれ出でます。その人が生まれた家庭は、基本的には特定の血縁社会と地域社会に所属していますから、その文化を身につけながら育っていきます。やがてさまざまな意見を通して成長する中で、自分が所属する社会の枠がだんだんと広がり、やがてそれは地域の境を越え、また時には国家の境を越えて、さらには人間の枠を越え、時には地球という惑星の枠を越えて、宇宙にまで広がっていくことになります。
 社会心理学の研究では、自分の仲間として認識する範囲は、「私たちと感じる仲間(we feeling group)」と関連していて、この感覚をもつことができる仲間を「内集団」と規定しています。この感覚を持つことができない言わば外の人たちを「外集団」と呼びます。内集団の間には、自ずと対立や紛争が生じます。そして自分の属する内集団の存続を優先し、その外にあるものは、生命をいただいている者を含めてすべてを否定する考えが、「排他主義」ということになります。
 教皇は今月の世界共通の意向に「経済活動に責任ある立場の人たち」をとりあげ、「経済活動に責任ある立場の人たちが、排他主義に対抗する勇気を持って、新しい道を切り開くすべを見いだすことができますように」と祈るよう促しています。つまり、「私たち」と感じることができる自分の所属組織だけの利益を追求するのではなく、その外側にある組織や団体、国の枠を越えた社会活動団体、人間を含めたすべての被造物にまで範囲を広げて利益を追求することを目指して欲しいと願っています。
 教皇は排他的(exclusive)と対抗する正反対な考えを内包的(inclusive)と表して、たびたび私たちにその方向性を志すように求めています。内包的とは、どれも排除することなくすべてを包み込むことです。まさに、神が、そしてひとり子イエス・キリストが目指している生き方です。
 自分に利益をもたらす行いが、経済活動の動機付けになっていることも確かなことです。私たち一人ひとりが、そして経済活動に責任ある立場の人たちが、自分(私)の枠を自分たち(私たち)に広げ、その枠をさらに少しずつ広げていって、最終的には、誰も排除されない人類全体の、地球全体の、宇宙全体の利益について考えて行動するようにと、祈ってまいりましょう。