2018年4月 2.悲嘆から安寧に |
不慮の事故や災害で家族を失った人の喪失感、悲嘆の有様は、尋常なものではありません。あるアメリカの心理学者の研究によれば、配偶者を亡くした人がその時に受けるストレスは、日常生活の中で受けるストレスの数十倍、時には数百倍に達するほど強いものだとされています。高齢となって徐々に体力が衰え、病気にかかり、そしていのちを閉じるといった過程をたどったとしても、愛する人を失った悲しみは、とても深いものです。ましてや、事故や災害などの場合には、その死を受けとめることは非常に困難です。行方不明となって亡骸に対面できない場合には、「まだきっとどこかで生きている」と自らを信じ込ませる力が働いて、現実を受けとめることを拒否する傾向も強くなります。 ですから、愛する人の死に直面した場合には、先達が長い歴史の中で蓄えてきた知恵を借りて、葬送の儀式を一つずつしっかりと執り行っていくことが大切でしょう。まずは亡骸に対面します。悲嘆がピークに達する時です。感情を包み隠さずに、涙がかれるほど泣くことで、その死を心で受けとめられるようになります。そして、地域によって習慣が異なりますが、湯潅をして体を清め、物理的な接触を通して死を受けとめていきます。旧来は死体をお湯につけきれいに洗い清めていたものが、アルコールを浸した脱脂綿で身体の一部を拭く簡略な方法へと変化してきました。身体を清潔にするだけでなく、煩悩や生への執着心も洗い流す意味を持つ、大切な儀式です。そして、死装束またはお気に入りの服などを着せ、心を込めて棺に納めます。 もう一つ大切なことは、その人の死に対して、自責の念が強く生じてくることへの対処です。家族が津波で流されてしまった場合などには、「私が手を離してしまったために主人は死んでしまった」と語ることが、しばしば生じます。そこで、身近な人や司祭、修道者、牧師、僧侶などの宗教者が、しっかりとした死生観を伝えることが肝要です。すべてのいのちは、やがてお返ししなければならないものであって、いのちの営みは私たち人間を超える大きなものの業であること、人間として誰一人そのいのちの責任をとることができないことを説くことです。その思いは、葬送の儀式を一つひとつ執り行いながら、愛する人を失った人の心に刻まれていきます。月日を経て、その死をしっかり受けとめ、すべてを神に委ねて、悲嘆の心が癒やされて安寧が生まれる日が訪れるはずです。 日本の教会が今月の意向に示した「被災者」の心、特に、愛する人を災害によって失った人の心に、神の平安、安寧が訪れますようにと祈ってまいりましょう。 |