2018年4月  3.経済単位としての国家
 耳慣れないことばかもしれませんが、自らの意思によって経済活動を行うことができる主体のことを「経済単位」といいます。そして、家庭、企業、国家がこれに当てはまります。私たちの社会は自由経済システムですから、経済単位の中での意思決定の過程はそれぞれの規定に従わなければなりませんし、その主体が帰属している社会のルールを守らなければなりませんが、自らの意思で経済活動を行うことができます。前述のように、国家もその一つです。
 国家が所属している社会のルールは、国際法です。そして、国際連合を中心にして拘束力を持つルールもたくさんできていますが、国と国との利益が対立した場合、このルールが守られない場合がしばしば生じます。また、関税についての協定は、いまだにきちんと整備されていません。今日の中国とアメリカの貿易摩擦の問題は、このような背景から生じています。
 経済単位が追求する経済活動は、その主体が最大限の利益を上げて豊かになることです。豊かなものが巨大な資金力にものをいわせてますます豊かになり、貧しいものがますます貧しくなる仕組みが、この自由経済システムにはもともと存在しているので、富の分配の公平を保つために税の体系が整備され、さまざまな社会政策が行われています。しかし今日では、国際間において税のシステムはありません。
 教皇が掲げた意向に書かれている「排他主義」は、自分が所属する経済単位だけが豊かになれば、ほかはどうでもいいという考えです。紛争の原因は常にこの排他主義にあります。
 世界中が一つの経済システムとして同時に動いている、いわゆるグローバル経済の中で、新しい経済学によって排他主義を克服する道を探すことはとても難しい状況になっています。ですから、経済の論理ではなく、人道の論理で、正義と平等と平和を実現していくほかに道はありません。経済学が内包している「エゴ」へのベクトルを、「アガペ(愛)」のベクトルで緩和していくことが求められます。私たちの社会には、税というルールに基づいた利益の再分配のほかに、ドネーション(寄付や献金)という方法もつねに開かれていることを忘れてはなりません。
 経済単位としての国家がエゴだけを追求することがないようにと祈りながら、この一週間を過ごしてまいりましょう。