2018年8月  2.私たちの信仰と日本国憲法
 夏は平和について考える季節です。終戦の日、広島・長崎の原爆の日があるからです。日本国憲法の前文には「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とあり「平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」と続きます。これが第九条の戦争放棄と戦力の不保持の源泉です。再び戦争の惨禍に結びつくようなものは排除しようと決心したのです。
 私たちキリスト教徒は目に見えないものを信じています。主の復活を信じることができずに、「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない(ヨハネ20・25)」と言うトマスに、主は「信じないものではなく、信じる者になりなさい(ヨハネ20・27)」と言われました。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して…」という姿勢は、私たちの信仰と重ならないでしょうか。主を信じるということは、主が現実社会の中で働いておられることを信じることであり、それを前提とした行動をとることです、いのちをかけて。そう、私たちは平和の実現のためにいのちをかけることを決心したのです。
 主は「非暴力」を貫きました。そのためにご自分のすべてをささげ、そのいのちさえも惜しまなかったのです。非暴力を貫くことは簡単なことではありません。主の生き方を見ても、また、非暴力を貫いたガンジーの生き方を見てもわかります。「たたかれたら、たたき返せ!」というのは一見すると簡単な解決法に見えます。しかし、主はそれを選びませんでした。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5・44)」マザー・テレサはノーベル平和賞受賞式の機会にこう訴えました。「平和のための破壊はあり得ません。互いに愛し合ってください」と。
 戦争をしない日本の援助はそれなりに力を持っていると聞きます。軍事力を背景にしない日本の支援や援助は、それなりの安心感を相手国に与えるのです。平和国家日本が、この複雑な世界に平和をもたらす国として、これからも貢献していかれますように、祈ってまいりましょう。「神の国は見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。(ルカ17・20-21)」と言われる主の言葉に従って、周囲から平和な神の国が実現していくように祈り、働いてまいりましょう。