2019年1月  2.効率の論理と福祉の論理
 日本の教会は今月の意向として「神の国のしるし」を取り上げ、「能率や業績が優先される厳しい競争社会」で「小さくされた人々を大切に」することによって、「神の国のしるしとなる」ことができるようにと祈ることを勧めています。
 私たちの社会は、自由経済社会の原則を取りながらも、そのゆがみを調整するために福祉の制度を整えて、誰もが基本的人権を擁護されて生きることができる仕組みを整えています。自由経済社会の中で高い生産性を上げて、経済的価値を最大化し、結果として利潤を最大化するためには、合理的な組織運営によって効率を最大化する必要があります。しかし、何も制限を加えずにこのような活動を行っていくとすれば、そこで働く人たちに過重な負担がかかってしまいますので、労働時間を制限したり、最低賃金を定めるなどして、労働者の人権を保障する福祉制度を定めています。
 一方、利益をすべて自分たちのものとするのではなく、その一部を拠出して、社会の仕組みの中で、主に、道路や公園などの公共施設のために、あるいは、病気や怪我などで働くことができない人々、家族の働き手を失って経済的に困窮している人々などの社会保障・福祉のために、税の制度を定めています。
 このように、近代福祉国家と呼ばれている国々では、効率の論理と福祉の論理の間の矛盾を国が法律によって調整しているわけですが、ややもすると効率の論理が優先されて福祉の論理が蔑(ないがし)ろにされがちです。また、人々の苦しみは予想だにしない状況で発生しますから、制度として救済の道が開かれていない状況で困難に遭遇する場合もあります。そのような状況では、法律の枠ではない自発的な福祉活動が、法律の谷間を埋める役割を果たしています。それでもまだ、谷間にあって苦しんでいる人々はたくさんいます。
 たとえて言うならば、効率の論理は、一番足の早い人に合わせて歩くように基準を定めるのに対して、福祉の論理は、一番足の遅い人に合わせて歩くように基準を定めているのです。効率の論理では、足の遅い人は置いてけぼりにされて、その面倒は見てもらえないという側面を持っているのです。
 置いてけぼりを食らって、小さくされた人々に寄り添って歩むのは、キリストの弟子である私たちに求められる姿勢です。2019年、人々が何らかのかたちで働き始めたこの時期に、福祉の論理が優先される社会の実現のために祈りをささげてまいりましょう。