2019年2月  4.み旨を識別する
 今月の日本の教会の意向を記した文に、「神のことばを聴き、そのみ旨を識別し」と記されています。ところが、「神のことばを聴く」ことも、「み旨を識別する」ことも、容易にできることではありません。どのようにすればよいのでしょうか。
 祈りは神との対話だと言われています。自分の思いを神に伝え、神の思いを感じ取る営みです。神の思いは、はっきりとしたことばで伝わってくるものではありません。ましてや、人の声を聴くように、空気の振動によって鼓膜が振動して音として認識できるようなものでもありません。神の思いは、神のことばは、私たちの心に伝わってくるものなのでしょう。ということは、心を敏感にさせることで何かを感じ取ったときに、その感じ、感覚、フィーリングの中にどのような意味が込められているかを察知することが、「神のことばを聴く」ことだと理解することができます。
 ですから、心を柔らかくして、神が私の心に触れたときに、敏感に感じ取ることができるように、「心を研ぎ澄ませて」いる日ごろからの準備、訓練が必要になります。日々の生活の中で、神との交わりの時、祈りの時を設けて、「神のことばを聴く」営みを続けて参りましょう。
 識別は、神のことばを聴くことに深く結びついています。ロヨラの聖イグナチオは、日々の生活の中で私たちの心の中に現れる考えには三つの種類があって、一つは自分の自由な意思から生まれるもの、一つは外部のよい霊から来るもの、もう一つは外部の悪い霊から来るものとしています。自分の考えがよい霊から来るものなのか、悪い霊から来るものかをより分けることが「識別」です。
 識別も、日々の生活の中で継続して鍛錬(たんれん)を重ねていくことによって、よい霊のうながしなのか悪い霊のうながしなのかを、見分けることができるようになってきます。その鍛錬とは、いわゆる「意識の究明」で、その日の出来事をふり返りながら、よい霊のうながしにしたがって行ったことに感謝し、悪い霊のうながしにしたがってしまったことにゆるしを願う日々の営みです。日々の究明を重ねていると、よい霊のうながしにしたがったときの後味と、悪い霊のうながしにしたがった時の後味が、はっきりと違うことに気づきます。この気づきは、識別にとても役立つものです。
 日々の生活の中で、祈りの時、究明の時をもって、神のことばを聴き、み旨を識別することができるように、毎日をていねいに過ごしてまいりましょう。