2019年6月  3.流言飛語
 根拠のない情報が、口伝えに広がって行く状況を、流言飛語(りゅうげんひご・蜚語とも書く)と言います。デマと同義に用いられることがありますが、デマはあくまでも真実ではない事柄をあたかも存在するように、意図的に作り上げたものであるのにくらべて、流言には意図はなく、人々の不安や恐れによって誤った情報があたかも真実のように伝わって流布してしまう状況を指すことが一般的です。
 デマは、ドイツ語のデマゴーグから派生した言葉で、そもそも古代ギリシアの煽動的民衆指導者のことを指しています。大衆扇動者とも呼ばれ民主主義社会において社会経済的に低い階層の民衆の感情、恐れ、偏見、無知に訴えることにより権力を得、かつ政治的目的を達成しようとする政治的指導者のことでした。古代アテネの時代より民主主義社会に度々現れて、民主主義の基本・原理的な弱点、則ち究極的な権限は民衆にありその中でより大きな割合を占める人々の共通の願望や恐れに答えさえすれば政治的権力を得られるという点を利用したものでした。
 今日では、真実ではない情報を発信することを「フェイク」と言っていますが、フェイクは必ずしも人を避難したり陥(おとしい)れたりすることだけを意図せず、世間をびっくりさせることや、おもしろおかしくすることも目的として発信される情報もあります。
 さて、日本の教会は今月の意向として「差別のない社会」の実現に向けて祈るように勧めていますが、差別をあえて「いわれのない差別」と表現しています。事実に基づかない事柄によって、その人が「普通でない」「変わった」存在であるように扱われてしまうのです。もちろん、事実に基づいた差別が、現にこの社会に存在していて、それを克服するための努力が社会全体に求められていますが、より深刻な差別は、「いわれのない」差別です。とくに、SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)が普及して、誰でもが情報の発信源となることができ、しかもその情報が瞬時に拡散してしまう今日では、流言飛語は社会の構造を揺るがす出来事にも発展しかねません。
 情報が真実に基づいているか、しかもその真実は、心の真理、神の御心の真理に通じているかを見極めて、自らの判断の基準にするように心がけたいものです。差別が感じられたら、その差別の陰にどのような真実、真理からの乖離(かいり)があるかを思い巡らして、いわれのない差別の解消に努める一週間といたしましょう。