2019年6月  4.謙遜の第三段階
 教皇の今月の意向に、司祭の生活様式が掲げられ、「司祭が、簡素で謙遜な生活をとおして、最も貧しい人々と積極的に連帯できますように」祈ることが勧められています。教皇フランシスコは、司祭として自らそのように生きた人です。教皇はロヨラの聖イグナチオの霊性を生きるイエズス会の司祭として、アルゼンチンの比較的貧しい地域の教会の主任司祭で働いていましたが、教会に留まっているのではなく、積極的に人々と交わり、連帯の姿勢を貫きました。しかも、その生き方を若い人たちに伝えようと、常に青年たちとともに歩みました。
 ところで、「謙遜の第三段階」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。これは聖イグナチオが著した祈りのガイドブック『霊操』に書かれている言葉です。謙遜には三つの段階があって、第一の段階は、「背けば大罪になる掟を破ろうなどとは考えもしない」(霊操165番)こと。第二は「第一の段階よりも一層完全な謙遜で、・・・貧しさよりも富を、不名誉よりも名誉を、短命よりも長寿を望むことなく、いずれにも傾かない態度をもつということで、・・・小罪を犯そうなどとは考えもしない」(霊操166番)ことを指しています。これは、霊操を歩む際に求められ基本的な態度である「原理と基礎」(霊操23番)に通じています。
 謙遜の第三段階は「もっとも完全な謙遜で、・・・わが主キリストに一層誠実に倣い、似た者になるため、貧しいキリストと共に富よりも貧しさを、侮辱に飽かされたキリストと共に名誉よりも侮辱を望み、この世の学者、賢者とみなされたい望みよりも、かつて愚者、狂人とみなされたキリストのために、愚者、狂人とみなされることを望み、選ぶ」(霊操167番)ことです。
 悪の誘(いざな)いを絶ち切って、キリストに倣って生きることは、容易ではありません。日々黙想し識別して、神の望みと自らの望みを重ね合わせて生きていかねばなりません。私たち一人ひとりに、この謙遜の第三段階で生きることが求められているのですが、生涯をキリストにささげて司祭職に召し出された者は、ことさらこの生き方に努めなければなりません。
 叙階によって神の僕となったすべての司祭が、教皇フランシスコの招きに応えて、簡素で謙遜な生活を送ることができるようにと、祈ってまいりましょう。