2019年7月  3.無償の愛と神の義
 私たち人類は、400万年を超える悠久の時の流れを経て、とうとう一つの英知にたどり着きました。この世に命をいただいたすべての人は、性別、人種、国籍を超えて、また障害のあるなしを超えて、貧富の差を超えて、人間として大切にされるべきであって、誰もこの基本的な人間として生きる権利を奪うことはできないと、国際的に認められたのです。1948年に国連の総会で採択された「世界人権宣言」です。人々が分け隔てなく、平等に、公正に扱われることを保障し、不当な不利益や迫害からすべての人を守ること、つまり、正義の推進の後ろ盾が整うことになりました。
 ところで、すべての人に保障されている平等や公正についての考え方は、人々の間に共有されている一定の価値にその判断の基準が置かれていることも確かなことです。差別や区別、異なる扱いなどが、価値基準に照らして合致しているかを、同じ人間である者が、正義をつかさどる責任を持つものとして判断し裁定を与えることになります。
 人と人との関係ですから、基本的には何らかの「財」を交換することで関係を維持して社会生活を送っています。友人が困っている時に助言を与えると、友人は感謝の言葉をもって、その助言に対して報います。たびたび助言が続くと、感謝の言葉だけでは十分に報いることができないので、お茶に誘ったり、小さなプレゼントをしたりして、助言という「財」の交換がアンバランスにならないように配慮します。それでも報いきれない助言で、世話になりっぱなしという状況になると、二人の社会関係には権力(power)が生まれます。助言を受けた人が、助言を与えた人にたいして、十分に報いていないために負い目を持つ状況が続くのです。この仕組みは社会学で交換理論と呼ばれています。
 「財」の交換において、報いを求めない姿勢が示されると、物事はどのように進んでいくのでしょうか。もちろん権力関係は生じませんし、不義も不平等も生まれません。親が子どもを育てるにあたって、「おむつを取り替えてあげたから」「お風呂に入れてあげたから」と一つひとつ赤ちゃんから何かの報いを求めることなど、ありえません。子育てに行き詰って苦しんでいる親がいるとすれば、子どもとの関係に一般社会の「財」の交換の枠組みを当てはめてしまっていることがあるかもしれません。親の子に対する行いは、子に対する愛は、そもそも無償なものです。そして、子に注がれる親の無償の愛こそが、神が私たち一人ひとりに注がれる無償の慈しみに満ちた愛なのです。
 人の義は、公正さに依拠しています。神の義は、無償性に依拠しています。「飢えていたときに食べさせ、裸のときに着せ」たその行い(マタイ25・31-40参照)は、何かの報いを求めて行ったものではありません。無償の愛に生きることができるように、日々の生活を整えてまいりましょう。