2019年12月  3.神の義
 今月の意向で、教皇は、子どもたちの将来のために必要な施策が優先して打ち出されるようにと、祈りをささげるよう奨めています。子どもたちの将来は、高齢者の将来よりもずっとずっと心を配らなければならない、私たちにとって大きな課題です。
 そのためには、すべての人が基本的人権を保障され、正義、つまり公平に取り扱われる社会、そして、平和、つまり暴力による権力の行使がすべて否定される社会の実現が、欠くことのできない要素でしょう。ところで、私たち人間の間での正義とは、特定の人が不利益を受けたり、またその反対に、特定の人が多大な利益を占有したりできない、分配の公平性に依拠しています。子どもたちにお菓子を配るとき、強くて力持ちの子がたくさん取って、小さな弱い子がそのおこぼれを分かち合うことは、正義に反するのです。皆が同じ数だけ分かち合って公平に分配します。人間の知恵では、この分配の公正さが、正義基準となっているのです。
 ところが、神の国は、人間の考える正義では実現できないことを、聖書は問いかけています。強盗をおこなって犯罪人としてイエスの十字架の隣で磔(はりつけ)になった盗賊の一人は、イエスと一緒に楽園に招かれました。おそらく十戒を守った信仰生活を送ってはいなかったでしょうし、洗者ヨハネの悔い改めの洗礼すら受けていなかったでしょう。神の義は、人間の考える公平とは違うのです。この盗賊は、神のひとり子であるイエスを信じ、心を改めた小さな者の一人だったから、真っ先に神の恩寵が注がれたのです。
 ぶどう園で働く人には、朝からずっと一所懸命に働いた人にも、夕方から雇い入れられて少ししか働かなかった人にも、同じ賃金を払うことが、神の義なのです。人間の目には、極めて不平等に映ります。
 このような神の義の目ざすところを考えると、すべての子どもを平等に取り扱う施策ではなく、最も苦しんでいる、最も小さくされている子どもに、優先的に取り扱う施策が求められることになります。主の御降誕を前にして、今週は、神の義に思いをいたし、最も必要としている人に、優先的に配慮がなされるように願いながら、過ごしてまいりましょう。