2020年3月 4.虐待と暴力 |
私たち人類が歩んできた歴史の中で、今日ほど一人ひとりの人間が大切にされる時代はありませんでした。ホモ・サピエンスという種を保存し、しかも自然淘汰の原理に基づいて優れた遺伝子を後世に残すという動物的本能に裏付けられて数百万年を過ごしてきた私たちの先祖は、ずっと殺戮と搾取を繰り返してきたのでした。そのなかで、虐待と暴力は統治の一手段として容認されてきたきらいがあります。しかし20世紀になって、戦争が世界規模で大きな二つの勢力のぶつかり合いの体をなすまでになったとき、世界の指導者たちは人類絶滅の危機を感じとり、戦争を回避する仕組みを構築しようと努力し始めました。そして戦争の危機を克服する安全保障理事会を中心として国際連合が設立されました。その1948年の第2回総会で、世界人権宣言が採択され、ヒトとしてこの世にいのちを受けたすべての人は平等であり、基本的な人権を有していることが世界共通の認識になったのでした。 イエス・キリストは、徹底した非暴力主義者でした。そして、人類としていま手に入れている基本的人権の擁護は、まさにイエスの教えです。暴力や搾取、殺人や虐待に心が動くようなときに、イエスは悪を退けて神の無償の愛に自らを置くように薦めているのでしょう。 殺人も暴力も、そして虐待も、その実態は改善されてきましたが、その一方で、秘密のうちに、あるいは暴かれることなく水面下で行われてきた暴力や虐待は、情報公開の気運とともに明るみに出されてきました。そして、虐待の犠牲者の数が統計上にのぼって、私たちを驚かせている現実があります。 虐待は、抵抗することができない弱い者に対して、体力的にあるいは地位的に優位な者が行う極めて卑劣な行為です。私たちの遺伝子の中に潜んでいる殺戮と搾取の根が、自分の思い通りにならない状況になると突然暴れ出します。そして、虐待の多くは閉鎖された空間での出来事なので、押さえがきかない状況を作り出し、それが繰り返されることになります。ですから、その行為が行われていることを察知したら、直ちにそれを明るみに引きずり出すことが肝要だと言われています。 神の無償の愛に導かれている私たちは、神の支えと促しを受けて、卑劣な行為に立ち向かう責任があります。一人ひとりが大切にされるようにと、祈り願う一週間といたしましょう。 |