2020年5月  3.喜びを分かち合う
 聖パウロは、キリスト者の生き方の基本として「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(一テサロニケ5・16)と勧めています。ただ「喜びなさい、祈りなさい、感謝しなさい」と言うのではなく、「いつも、絶えず、どんなことにも」と付け加えています。このみ言葉を味わいながら、日本の教会の意向である「召命」で示された「喜びを分かち合うことの中に、人生の意味を見いだすこと」の意味を、深めてみましょう。
 聖パウロは、「喜び」という言葉を用いて、どのような状況の中で、心にどのような感覚(フィーリング)を受けとめた時の有様を表そうとしたのでしょうか。悲しみと対照的な心の状態を指す、私たちが日常使っている言葉の喜びとは少し違うようです。つまり、自分が願っていたり望んだりしたことがその通りになった時のうれしさとも異なりますし、体も心も心地よく軽やかな時の楽しさとも異なります。心の表面で感じ取るものではなく、もっと奥底から湧き出てくる次元の異なった特別な感覚を指しているように思えます。
 心の表面で辛さや苦しさを感じていても、あるいは悩んでいたり困っていたりしていても、心の奥底ではいつも喜んでいることができるのは、なぜでしょうか。聖パウロは、多くのユダヤ人たちが自分の話に耳を傾けてくれなかった時も、さらには、牢につながれていた時も、喜びの中に生きていたのです。
 心の奥底で、自分のその時の命が、神の御心と重なっていると確信できた時、今この瞬間を神の望みどおりに生きていると感じられた時、心の底に充実感と安心感がひろがっていくことを、聖パウロは喜びと表したに違いありません。だからこそ、苦しくても悲しくても辛くても、いつも喜んでいることができるのです。
 この喜びを分かち合う道に、多くの若者が召されていくようにと、祈りをささげてまいりましょう。