2021年1月  4.共通善とは
 日本の教会は、意向の中で「自己の利益にとらわれることなく、共通善のもとに連帯し、協力して」コロナ禍に対処していくことを奨めています。そこで、「共通善」についての考え方を整理しておくことに致しましょう。
 共通善とは、「個人や部分的な集団が追求する善(価値)ではなく、政治社会全体にとっての公共的な善(価値)を表す概念で、政治学の分野で用いられていた用語です。英語のcommon good の訳語で、「共同善」ないし「公共善」と表現されることもあります。
 ギリシャの哲学者アリストテレスは『政治学』の中で「ポリスの目的は『最大の善』であり、その善とは『共通の利益』である」と主張しました。正しい政体と逸脱した政体を区別するため、とりわけ統治者が自らの私的な善を追求する政体(暴政)を批判する文脈において用いられてきました。キリスト教の文脈では、トマス・アクイナスが政治と法の主要な目的を共通善の追求として定式化して、「自由民の大衆は、支配者によってその共通善のために統治されるとしたら、そのような支配は正しく、正義に適ったものであり、自由民に相応しい」と述べています。
 今日、自由主義の立場からは、人々が抱く「善の構想」は多元的であり、互いに共約不可能なほど異なっていることを前提として、公的権力がある特定の「善の構想」を支持し、それを実現するために強制力を用いるならば、それとは異なった「善の構想」を抱く人々は抑圧されざるをえないと、共通善については懐疑的です。
 独特な講義スタイルで世界的に有名になったハーバード大学教授のマイケル・サンデルは、コミュニタリアニズム(共同体主義)の立場に立って、共通の「善の構想」は、政治社会全体のレベルで共有することは不可能であるとしても、中間団体としての共同体において共有することは可能だとし、人々が私的利益ではなく「共通善」を追求することの意義を強調しています。
 さて、カトリック教会でも、一人ひとりが社会生活に参加する文脈で、共通善が大切にされています。『カトリック教会のカテキズム』の1905項で「人間の社会的本性ゆえに、個々人の善は必然的に共通善と結ばれています。他方、共通善は個人を考慮することなしには決定されません」とし、1906項では、共通善とは、「集団とその構成員とが、より完全に、いっそう容易に自己の完成に達することができるような社会生活の諸条件の総体」であると定義して、三つの本質的要素を提示しています。第一に個人の尊重、第二に集団の社会的安寧と発展、そして第三は平和と安全です。
 多様性(ダイバーシティ)を容認する今日の世界で、国籍や民族や文化、思想や信条、そして信仰を異にする人々と、よりよい社会を築いていく上では、常に共通善を意識していくことが求められているのでしょう。