2021年8月  4.無謬性という幻想
 教会は聖霊の息吹をうけて日々新たにされ、昨日よりも今日、今日よりも明日、キリストが望む生活を丁寧に送ることができるようにと、刷新され続けています。それと同時に、この聖霊の働き、神のいつくしみの恩寵に反する力も働き、私たちを罪へと誘っています。キリスト教では、悪の働きとしてそれを位置づけ、祈りの中で「悪からお救いください」と日々唱えます。
 教会にとっての大きな誘惑の一つは、他の宗教や他の宗派は間違っていると思い込ませてしまう、排他性への誘いです。キリスト教、特にカトリック教会は、第二バチカン公会議を経て、宗教の多元性を認め、他の宗教を信じている人びととともに、平和と平等、人権と多様性を尊重する社会を築いていくことを教義としました。
 もう一つの誘惑は、教会の教えは決して間違っていないという、無謬性への誘いです。イスラム教を武力で攻撃した十字軍、カトリック教会に異を唱えたマルティン・ルターの破門など、カトリック教会は歴史の中で度々大きな過ちを犯してきましたが、今日の教会は、その過ちを認め、ゆるしを願う姿勢に変わってきました。人間の業ですから、間違いを犯すこともあり得るのです。無謬性は専制的な権力者のおごりであり幻想に過ぎません。
 教会が排他的な姿勢と無謬性の主張から解放されて、常に神のみ心に適う姿に生まれ変わっていくためには、今月の教皇の意向にあるように「福音の光の中で自らを刷新する恵みと力を、聖霊からいただく」ことがとても大切です。私たちもこの意向に心を重ねて、日々の祈りをささげてまいりましょう。