2022年4月  3.「人をゆるします」
 聖週間とご復活を迎える典礼暦の中にあって、日本の教会は「家庭」を意向として取り上げ、「きずなが揺らいでいる夫婦が互いに歩み寄り、和解の糸口を見出すことができますように」と祈ることを奨めています。
 今、21世紀最大の危機に直面している国際情勢を鑑みた時に、この「夫婦」を「国々」と置き換えることが、まさに私たちの願いの本質であることに気づかされます。その本質をしっかりと受け止めるために、置き換えた文をもう一度記します。「きずなが揺らいでいる国々が互いに歩み寄り、和解の糸口を見出すことができますように」。夫婦であろうと、上司と部下であろうと、また、組織と組織の関係であろうと、民族と民族であろうと、そして国家と国家、軍事同盟間の場合であろうと、社会のあらゆる場面で、「和解の糸口を見出すことができるように」と祈りをささげ、さらに、和解の糸口はどこにあるかを思いめぐらす一週間といたしましょう。
 侵略、破壊、殺人などの蛮行は、憎しみを生みます。家が焼かれ、家族が殺され、住み慣れた場所から逃れて、何とか生き延びている多くの人々の心の痛みはどれほどのものか。平安が訪れますようにと軽々に口にするのもはばかれます。その憎しみの中には「ゆるす」という言葉を見つけることはできません。むしろ、口にのぼってくるのは「ゆるせない」ばかりでしょう。
 私たちの教えは「ゆるす」ことを第一義としています。心がどんなに傷つき、怒りや憎しみの中にあっても、「ゆるす」よう奨められているのです。しかも、自分の側から一方的にゆるすのです。これは、容易(たやす)くできることではありません。しかし、和解の糸口は、そこにしか見出すことができないことも、理解できます。
 日々「主の祈り」で私たちは「人をゆるします」と唱えます。相手が自分の非を認めるかどうかはかかわりのないことで、「ごめんなさい」のことばを受けたからゆるすのではないのです。キリストが私たちに教えてくださった祈りの中で、人と人とのかかわりについて触れているのは、この「ゆるします」だけです。
 日々の生活の中で、夫が妻を、妻が夫をゆるすことができるように、国際情勢の中で国と国とが、ゆるし合うことができるように、自分の犯した罪をゆるしていただくことを願いつつ、神の導きを祈り求めてまいりましょう。