2023年2月  2.凝集性と閉鎖性
 小さな人の輪であるグループにおいて生じる厄介な問題として、閉鎖性があります。小さなグループで、繰り返し人々が交わると、そこには固有の文化が醸成されます。このことで、連帯感や親密性が培われ、共同体として一つにまとまっていきます。そこには、「私たち意識」が生まれます。そして、日本語では「うちのグループ」という表現で他と区別するようになります。このように凝集性が高まることはグループにとって良いことなのですが、同時に閉鎖的になっていく宿命を持っています。このことを考えると、教会は常に閉鎖的になる傾向を持っていることに気づきます。
 自分たちを「うち」と呼ぶからには、「そと」が存在するのです。その閉鎖性は、排他性につながっていきます。自分たちは意識していなくても、そのグループに新しいメンバーを迎えることが、だんだんと難しくなってくるのです。オルポートという心理学者は『偏見の心理』という著作のなかで、「私たち意識」の「私たち」の範囲をどこに設定するかによって、偏見や差別の境界が定まることを指摘しました。ですから、「私たち日本人は」と言えば外国籍の人を区別し、時には差別することにつながりますし、「私たちクリスチャンは」ということで、他の諸宗教との間に境界線を引くことになります。
 だからこそ、私たちは常に開かれた教会、だれでも受け入れることができる小教区を心掛けなければならないのです。「開く」ことを意識して行わない限り、凝集性が高い集団は閉鎖的になります。
 教皇は「小教区の教会」という意向の中で「最も困窮している人々を招き入れることができますように」と述べています。おそらく、このような人々は、小教区で培われた文化とは異なる環境で生活していますから、意識して迎え入れる姿勢を整えない限り、通常の社会関係の中では枠の外におかれて、排除されてしまうでしょう。開かれた小教区であり続けることができるように、ともに祈りと行いをもって、取り組んでまいりましょう。