2024年3月  4.諸宗教の共存共住
 教皇は意向として「新たな殉教者」を取り上げ、今なお続いている殉教の事実を受け止め、キリスト教の信仰のゆえに命を奪われることのない世界に向けて歩みを進めるようにと私たちを招いています。また、命を落とした人々の勇気と宣教の思いを、私たち一人ひとりが受け止めるようにと招いています。
 いずれの国においても、いずれの社会においても、基本的人権として「信教の自由」が保障されていなければなりません。しかし、キリスト教だけではなく、少数の人々が信仰している宗教を認めない、あるいは活動を制限している国家もいまだに存在しています。すべての人に信教の自由が与えられているとは言えません。国際社会がこのような人権侵害について、足並みをそろえて改善される方向へと導いていくことができるように祈りましょう。
 課題は国家の政策ばかりではありません。私たち一人ひとりの心にある、ある意味での選民意識が、他の宗教を承認せず、また自分が信仰する宗教が最も優れているという意識へと導く傾向があります。自分が身につけてきた文化が、最善最良だとする意識構造を、エスノセントリズム(自文化中心主義)といいます。自分の育ってきたエスニック集団(族群)、民族、人種の文化を基準として他の文化を否定的に判断したり、低く評価したりする態度や姿勢のことです。
 キリスト教は、ダイバーシティ(多様性)を大切にして、多民族、多宗教の共存の道を目指しています。そのためには、他の文化や宗教を、その人々にとって大切なものであるとの認識に立って、否定せず排除せずに、受容することが求められます。
 聖フランシスコ・ザビエルは、マレーシアのマラッカを経由して、日本にキリスト教を伝えました。マラッカという都市は、その当時から交易の中心地で、さまざまな文化的背景を持つ人々が暮らしていました。キリスト教の教会のすぐ隣にイスラム教のモスクがあり、行き交う人々の衣服も民族衣装のオンパレードだったと伝えられています。過日NHKで放映されたマラッカを紹介する番組で、住民の一人が「ここは世界で最も寛容な町だ」と誇らしげに語っていた言葉こそ、殉教という悲劇から私たちを解放するすべなのでしょう。
 目の前にいる人の人格を尊重することは、その人の宗教も容認して、寛容に接する姿勢から始まります。諸宗教対話という次元から、諸宗教共存共住という新しい次元へと歩みを進めてまいりましょう。