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3. 原爆投下の中で―医師として、神父として…

 町の中心部のすべての道路は火災のために通れなくなってしまった。おびただしい怪我人が出て、修練院から怪我人を探しに出かける前に、人々は修練院に救助を求めてきた。アルペ神父は聖堂に行き、祈り、そして決断をした。会の家を病院にしようというのである。アルぺ神父はかつて医学の勉強をして医師になり、しかも外科の医師であった。彼の薬箱はガラクタの中に壊れて残っていた。唯一使えるものは、ヨードチンキが少々と、アスピリン、気泡性の瀉利塩、重炭酸塩が少しあるだけであった。
 「どこから始めようか」。アルペ神父と修練者たちはまず急いで家の掃除をし、そこにできる限り多くの負傷者や病人を収容した。150名以上の人が収容された。収容者の食糧を調達しなければならない。修練者たちは自転車に乗って、あるいは徒歩で、広島の周辺に買出しに出かけた。そして「奇跡」ともいえるほど、食糧を手に入れることができた。
 医者としてアルペ神父は、打撲傷を負っている患者が多いことに気づいた。骨の骨折、筋肉を引き裂く切り傷もあった。これら生身の傷を消毒しなければならなかった。他の怪我は体の中に入りこんだガラスや木材による傷であった。そのほかに胸や腹にすさまじい火傷を負い、水泡ができている人たちもいた。驚くべきことは、これら重傷の負傷者たちが、どんなに静かにひどい痛みに耐えたかということである。アルペ神父はそれを見て感嘆した。
 午後の5時頃に、アルペ神父の一行は町の中に入ることができ、幟町小教区に夜の10時頃に着いた。そのあと、暗闇の中をできるだけ多くの怪我人たちを連れて、少しずつ用心しながら修練院への道を歩み始めた。目を覆いたくような光景が数多くあった。川には火から逃れた怪我人たちが、ちょうど引き潮で川の水が引いていた川辺に、ひしめくように横たわっていた。ところが夜中になると、潮が満ちてくる。怪我人たちは川べりに増水してくる水から逃げる力もなく、半分泥に埋もれたまま、忘れられないような悲鳴をあげながら、水の中に消えていった。一行は翌朝5時にやっと修練院に帰り着くことができた。怪我人たちを聖堂の畳の上に寝かせて行なわれたミサは感動的なものであった。

(特集-アルペ神父 3 2006/6/16)

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