アーカイブ

3. あのときの子どもたちは

 1982年6月、内戦の続いていたレバノンにイスラエル軍が侵攻し、その指揮をしていたのがシャロン氏でした。9月にはベイルートにあるサブラ、シャティーラ、ビーア・ハサンのパレスチナ難民キャンプで大虐殺が起きました。1,800人以上のパレスチナ人が殺害され(国連でも正確な死者数は不明とされた)、6,000人以上の子どもが孤児となりました。世界各国のメディアも「サブラ、シャティーラの大虐殺」と報じ、パレスチナ難民へも耳目が集中しました。
 この虐殺現場に最初に入ったジャーナリストとして、世界中からその報道写真が高く評価された広河隆一さんが団長となって、アジア・アフリカ作家会議の派遣団が編成されました。その一員として、私がシリアのアドラにあった「殉教者の子どもたちの教育都市」と名付けられた孤児の収容施設にパレスチナの子どもたちを訪れたのは、1983年8月のことでした。「8月6日、今日は私たち日本人にとってとても悲しい記念日です」。アドラでの交流コンサートの冒頭に、私はこのような挨拶をしました。そのとき、ここに収容されていた0歳から17歳までの少年少女430人の中から「ヒロシマ!」という声が上がりました。日本では大人でさえ、広島、長崎に原爆が投下された日との認識が希薄になっているのにと、あの状況下で「ヒロシマ」に即応した子どもたちに感慨もひとしおでした。銃口に身をさらされながら戦場に生きる子どもたちに、訪問者を慰労する思いやりが溢れていました。
 当時は10歳だったモナという少女を想い出します。とても人なつっこい子どもたちの中で、なんて哀しそうな瞳をした子だろう‥‥が、私の印象でした。握った私の手を離そうともせず、「アブ・アマール(アラファト議長)はみんなの父さんだよ」「アブ・アマールに会いたい」と、くり返し、くり返し訴えていました。「ビラーディ・ビラーディ(祖国よ)」というナショナルソングを、いつも大きな声で唄っていた子どもたち。まだ見ぬ祖国パレスチナへの切ないほどの憧憬が、子どもたちの希望をつないでいました。虐殺を生き抜いた子どもたちへの支援として、広河隆一さんの提唱で、「パレスチナの子どもの里親運動」が1984年から始まりました。
 20年という時が流れていきました。今あのときの子どもたちはどうしているだろうかと思います。「大きくなったらどうしたい?」との私の問いに、瞳を輝かせて「アブ・アマールのようなフェダイーン!」と答えた男の子。「傷ついた人を助けたいから、看護婦!」と答えた女の子。新しい命を育む親となっているのだろうか。それとも‥‥。
 アブ・アマール、アラファト氏の死を、どこでどのように受け止めているのでしょうか?
新谷 のり子(歌手)

『あけぼの2月号』―「時」の歩み第14回―(聖パウロ女子修道会2005年2月1日発行)より抜粋

(特集-平和への一歩 3 2005/3/4)

ページ上部へ戻る