アーカイブ

20. み言葉を伝える説教者

み言葉を伝える説教者
修道士ニコラオ福永ケイアン

 ニコラオ福永ケイアンは、近江(滋賀県)永原に生まれる。安土のセミナリオで学んだ後1588年イエズス会に入会し、二年後に誓願を宣立する。その後天草のコレジオに移って宣教活動を始めた。ニコラオの務めは「説教する」と紹介されている。イエズス会の人物評価に「日本の学問をよく修めている。」「日本語で巧みに説教する。」また、最後の報告書には「殉教の時にも説教した」と記されている。
 1614年、徳川家康の禁教令の時、ニコラオは長崎へ移り、さらにマカオへ向かって出発した。1619年の暮れ頃、54歳で日本に戻り、大村の教会を基点に活動し、迫害下にある信徒たちを励ました。1625年に終生誓願を宣立したが、当時日本の教会には司教がいなくなっていたため、司祭叙階に至ることはなかった。1633年7月、ニコラオは肥前に於いて捕らえられ、長崎の桜町牢に入れられ、そこで天草のコレジオで一緒に学んだ中浦ジュリアン神父やセミナリオで共に学んだ仲間たちと30年ぶりに再会する。7月に始まった殉教で、その年だけで34名の司祭、修道者が殉教。その中でイエズス会24名(そのうち日本人14名)皆セミナリオで育てられた人たちだった。
 ニコラオの殉教は、1633年7月28日に始まる。西坂まで歩いて連行され、体全体を頑丈に縛られたうえ狭い穴の中に逆さに吊るされる。7月末太陽の日差しで西坂の土は釜戸のように燃えている。二コラオが水を頼むと「信仰を捨てれば水でも何でも与える」と言われ「その条件なら水は要らない」と答えた。ニコラオは役人たちに説教し、キリストの教えを信じるように薦めた。役人が「悔しいことがあるか」 と訪ねると「はい、一つあります。将軍さまをはじめ、すべての日本人をキリストに導くことができなかったことです」と素直に答えた。拷問から3日目の31日、話をしているニコラオの声を耳にした役人が「誰と話しているのか」と訊ねられると「ここにいらっしゃる聖母マリア様と話しています」と答えている。聖母マリアの連祷を唱えていたのである。だんだんその声がか細くなり消えていったのは、奇しくも聖イグナチオの祝日、日曜日の朝だった。享年63歳。遺体は火葬にされ長崎湾に撒かれたという。
 ニコラオ福永ケイアンは、最期までみ言葉を伝え、また説教者の使命を自分自身の生命をもって全うした。

参考資料  
・一八八まるちれすの地を訪ねて カトリック生活2008年2月(ドン・ボスコ社)
・ペトロ岐部と一八七殉教者(列聖列福特別委員会 編)
・恵みの風に帆をはって(ドン・ボスコ社)
・キリシタン地図を歩く (ドン・ボスコ社)

(特集-日本の殉教者 20 2008/9/26)

ページ上部へ戻る