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2. アラファト氏の表情

2004年11月11日、パレスチナ自治政府議長ヤセル・アラファト氏が逝去しました。晩年、イスラエルは前議長を「テロリスト」と位置づけ、ブッシュ政権下のアメリカでもアラファト氏を「障害」とみなし、氏がヨルダン川西岸ラマラの議長府に軟禁状態になってからは、その存在すら無視し続けていたように思えていました。
 しかし、イスラエル建国に伴いパレスチナの地を追放され、アラブ各国で難民となることを余儀なくされた人々や、イスラエルの占領下で貧困、暴力、絶望と共に生きる人々にとっては、アラファト氏はパレスチナ人の尊厳と生きる権利獲得のため闘い続けたフェダイーン(自由の戦士)であり、偉大なカリスマでした。パレスチナ独立国家樹立の悲願を現実へと導いてくれ、志なかばで倒れた「パレスチナの父」として、永くその記憶にとどまると思います。権力への執着、巨額な遺産等の闇の部分をも含む功罪の評価は別としても。
 私の手元に、2004年11月21日付けの「カトリック新聞」があります。そのフロントページに、「教皇が認めた指導者、アラファト議長死去」というキャプションと共に、1996年12月バチカンで教皇と会見したときと記された一葉の写真が掲載されております。教皇に按手され、頭をたれ少年のようにはにかむアラファト氏、そして父の元に帰った息子を慈しみを込めて迎えるようなまなざしの教皇。肉厚でマシュマロのように白くやわらかい、見覚えのあるアラファト氏の手。その写真をあきず眺め、思わずほほえみ、そして暖かい涙が溢れたとき、私はやっと前議長の帰天を受け入れることができました。
 私は、生前の前議長とお目にかかるチャンスを三度いただきました。1989年10月東京で。そして2002年2月と6月にラマラの議長府で。イスラエル軍の侵攻、爆撃によって一部瓦解(がかい)しかかっていた議長府の一隅での会見が想い出されます。
 「昨日、シモン・ペレス外相(現イスラエル労働党党首)が話しておられました。パレスチナ建国には若者の力が必要です。自爆攻撃を停止させて下さい。苦しみや貧困は理解しています。互いに善き隣人が必要ですとアラファト議長にお伝え下さい」と。私たちの代表の発言を受けて、「シモン・ペレスはとても良い人です。しかしシャロンが‥‥」と、言葉を濁したアラファト氏の表情は、笑顔から苦渋へと変化していました。
 ヤセル・アラファト前議長とアリエル・シャロン首相とは仇敵(きゅうてき)といわれ、互いに相手を「テロリスト」と呼び合い、マスメディアは二人を「宿命のライバル」と報じていました。
 教皇は、イスラエルとパレスチナが早期に和解して、二つの独立した主権国家として共に生きることができるように祈っておられます。そこに至るまでは、まだまだイバラの道であるとしても、勇気を持って歩み出す、‥‥そうあって欲しいと祈ります。

新谷 のり子(歌手)

『あけぼの2月号』―「時」の歩み第14回―(聖パウロ女子修道会2005年2月1日発行)より抜粋

(特集-平和への一歩 2 2005/2/25)

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