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カンドウ神父

 カンドウ神父は1897年5月に南フランスのバスク地方に、11人兄弟の7番目として生まれた。
 小神学校、大神学校に進学した彼は、まもなく第一次世界大戦のため召集され、そこで生涯を決定する出会いをしている。
 ペルー生まれのマテオ神父との出会いである。「人間の価値はその実存の密度と、愛の深さによって定まる。愛によって生きる人間が一人でも多いほど、この世は天国に近くなるであろう・・・」マテオ神父の言葉は雷のようにカンドウ中尉の胸を打った。マテオ神父は「今日の会見が、あなたにとって火の記憶になるように」と言って去っていった。その後、カンドウ中尉は1919年にパリミッション会に入会し1923年、26歳で司祭に叙階する。日本への派遣が決まったのは1924年の秋だった。

 来日後、静岡県追町教会、東京関口神学校を経て、東京大神学校校長を務めたが、1936年、第二次世界大戦で本国に応召され帰国した。フランス軍は当初、好条件で日本に対する諜報活動をするよう命じたが、自身が半生を捧げる日本への思いからそれを拒否、最前線に送られた。1940年敵の爆撃に倒れ、さらに戦車の下敷きになって瀕死の重傷を負った。命ばかりは取り留めたが、長い療養生活を余儀なくされた。しかし日本への思いは断ちがたく、生命の保証はないという医師と親戚友人の反対を押し切って、1948年9月に再び日本に帰ってきたのであった。
 彼は東京文京区に古い日本家屋を構え、エルミタージュ(隠者の庵の意)という表札をかけた。エルミタージュは多くの信者が家庭的雰囲気の中で集まるようになっていった。彼は自分の愛した日本について、次のように書き残している。

 私を日本に引きつけているものは実にこの病人を見舞うときに感ずる愉快であります。忌憚なく申せば、それは桜や松やその他の景色ではありません。なるほど富士や松島や天橋立なども美しいには相違ないが、そのために我が一生を捧げるほどの美しさではありません。私をこの日本に生涯引きとめんとするものは実に多くの美しい魂であります。臨終の床にあって神に感謝し、喜びを述べ、従容として死んでいく人々であります。 
 私は国にいる父に、手紙でこう書いてやりました。「お父さん、私は家を出ていろいろ心配をかけたことをお詫びいたします。しかし私が日本に来てこのような人を教え導き、立派な人間に立ち返られた一事だけでも、日本へ来たのが決して無益でない証拠ではありませんか?」とこう書き送ったのです。
 それからまたこれはごく最近の事ですが、ある病院に肺を患っている娘を訪ねたことがあります。まだ20になったばかりでもう死期が迫っておりましたが、病気のためにかえって顔立ちは美しく見えて真に哀れな様子でありました。この娘が私に申しますには、「神父様、あなたが傍にいてくだされば、私は死ぬのが少しも怖くありません。私が死にそうになりましたら、看護婦に頼んで電話をかけてもらいますから、その時はどうぞ来てください」と、こう申したのでございます。この病人は微笑をもって死を迎えて安らかに天国にのぼりました。
 こういう例はまだいくらもありますが、これだけをお聞きになれば、何ゆえに私がこの日本に引き付けられ、ここに骨を埋めようと決心するほどこの国を愛するにいたったか、お分かりの事と存じます。今かりに、ここにお集まりの皆さんがことごとく立ち上がって私を軽蔑すると叫んだとしても、なお私は皆さんのすべてよりも大きな声を張り上げて、それでも自分はこのような美しい魂を見出したこの日本を愛せずにはいられない、と言い切るだけの勇気を感じております。
(『心眼に映じたる日本』より)

 自身の健康については、治療よりも痛みと戦いながら講演旅行などをこなしていたが、1955年9月28日、58歳の生涯を閉じた。

(特集-司祭 9 2010/6/11)

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