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3. クルド人難民支援を通して

 2004年7月、酷暑の下、東京青山にある国連難民高等弁務官事務所(国連ビル)前で、クルド人難民2家族12人が、国連難民条約に基づく難民としての処遇と日本政府による難民認定を求めて座り込みを始めた。私が彼らの存在に気付いたのは7月16日、近くの歯科医への通院の道すがらのことであった。何事かと立ち寄り、彼らの訴える切実な窮状に言い知れぬ衝撃を受けるとともに、自らの無知を大いに恥じたのであった。
 私の意識の中のクルド人は、はるか中東の国際ニュースではありえても、今自分の目の前になどいるはずのない人々であった。さらにわが国の非人道的難民政策の実態を相次いで突きつけられ言葉を失った。国連のマンデート難民であっても日本政府は難民として認定しようとしない、申請しても全て却下、特にトルコ系クルド難民は未だ一人だに認定されていない、入国管理局の聞きしにまさる残忍性、難民のほとんどがストレスからくる何らかの心身の障害を持っていること、仮放免の状態では働くことも許されず日常生活は極めて不安定、そして常に強制送還の恐怖に怯え、送還されれば生命の危険が待ち受けていることなど、堰を切ったように吐露される八方ふさがりの苦境に返す言葉なく、ただじっと謙虚に聞くのみであった。
 夏休み中、さらに数度彼らに会う機会があり、9月初旬には、2家族と連帯してデモに合流したイラン人難民ジャマルさんからも耳を疑うようなイランの社会情勢やわが国の難民が置かれた深刻な状況を直に聞き、少しずつ私の難民問題についての認識と理解は深まっていった。2ヶ月を越え、家族は皆心身ともに限界に達しているようだった。
 私は何者かから「今後お前は、これらの人々とどう関わっていくつもりなのか」と問われているかのように聞いた。私は青山学院で教員生活40年、そして座り込みは学院の目の前で2ヶ月も続いている。青山はキリスト教主義の学校、キリストの福音は貧しき者の魂の救済にある。正門脇にはメソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーの像。18世紀英国国教会の牧師ウェスレーは社会の弱者に救済の手をさしのべた最初の人、今日の社会福祉や社会運動の多くの起源はウェスレーにさかのぼるとさえいわれる。私はウェスレーの像を仰いだ。「汝、直ちに往きて彼らに手をさしのべよ。」これがその時私が受けた啓示であった。以後私の生活は一変する。「自分には何もできないが、まず彼らとできる限り多くを分かち合おう、時と場と思いを」と心に決めた。とっさに一つのアイデアが浮かんだ。「2家族を後期最初の授業に招き、彼らの訴えを学生諸君に聞いてもらおう。」
 当日は2家族から5人の方々が相模原キャンパスまで来て、講師として話して下さった。学生たちは初め当惑気味であったが、いつしか我を忘れて聞き入っていた。話し手と聞き手は完全に一体となり、両者の間には「沈黙の対話」が成立し、真のコミュニケーション(分かち合い)が交わされているのを見て取ることができた。学生たちが授業というものに、これほどまで真剣かつ熱心に参加したことが、かつて一度でもあっただろうか。彼らは授業の「始め」と「終わり」とでは変えられていた。なぜだろう。「真実」なるものに触れることによって互いに「響き合った」からだと思う。決して流暢とはいえない日本語ゆえにこそ、一言一句がそれだけ重く、鋭く、深く私たちの心に突き刺さる。私たちは、彼らの目に映ったあまりに醜悪な日本人の姿に息をのみ戦慄を覚える。だがそれが私たちの実像なのだ。この絶望的状況にあって希望はどこにあるのか。それは「悲しむ力」をまだ失っていない若者の存在である。そして、一人また一人、と支援に加わるようになった日本人との出会いを通して、クルド人難民の方々が、「日本にも心ある人がいる、この人々と出会えて良かった」と、この苦しい状況の中にも喜びを見出してくださっていることである。
 「傷つきうる豊かな精神」(野田正彰)の回復こそ今、私たちに託された最も重要な課題である。

雨宮 剛・1934年愛知県生まれ・人文学博士・青山学院大学名誉教授
参考文献;『私たちどうして人間じゃないの?―クルド難民と青学生の対話』(雨宮 剛 編)

(特集-闇の中の光 3 2006/1/6)

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