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4. パンのみにて生きるにあらず
名古屋駅西にホームレスの人が昼間憩う「いこいの家」があります。そこではシャワーや昼寝、ちょっとした炊事ができます。家では、基本的には炊き出しをしない方針です。おじさんたちにゆっくり過ごしてもらうことが目的でした。
今年いこいの家の利用者で、リーダーシップのある人が、市場から沢山の食べ物をもらってきておじさんたちに炊き出しを始めました。私は反対でしたが、その人の「皆おなかがすいているからかわいそうだ!」という言葉にほだされ、「しばらく様子を見ましょう」という立場になりました。しかし、喜んだのは短い期間のことで、やはり支配がはじまりました。「食べるばかりじゃなくて、おまえ達も食べ物を持ってこい!」そんな声が出るようになり、弱い人は次第に「いこいの家」に来られなくなってきました。利用者数が半分以下になりました。炊き出しがあるのに、利用者の数が減り、あるおじさんに「これはどういうこと?」と聞きました。その人は言いました。「人はパンのみにて生きるにあらずだからさ~。」
おなかが空いていたって、気持ちのいいところでなかったら来ないという意味でしょう。おじさんたちがゆっくりできる本来の姿に戻すために、利用者の前で「酒はさましてから来ること」「支配はしないこと」を話しました。皆うなずきながら聞いてくれました。今のところ表面的には、支配は見えません。しかし弱い人が来るようになるまで時間がかかるでしょう。どこの家庭も共同体も支配がはびこると居心地が良くないことを思わせられます。ある時期も、「いこいの家」の仕事をよくしてくれるおじさんがいました。時々人に命令していました。その人に、スタッフの一人が言いました。「威張るなら家の仕事をしない方がいい。喜んで働くのでなかったらやめて下さい」と言いました。
クリスマスに来られたキリストは威張らない人でした。威張ってもいいのに、自分の思い通りにしない弟子達の足さえも洗ったのです。支配から仕える事への道のりは誰にとっても大きな課題です。
島 しづ子 (名古屋堀川伝道所牧師)
(特集-コンパッション 4 2003/12/19)