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4. フィリピン体験学習を通して

「英語講師の私がなぜそこまでフィリピンに?」どれほど多くの人々からこう尋ねられたことか?それには2つの原体験がある。〈その1〉1951年高2の夏、国際キリスト教ワークキャンプに参加、そこで出会ったフィリピン青年から、戦時中の日本軍の残虐行為について知らされて激しい衝撃を受けた。〈その2〉大学で教えるようになった私は、1985年、恐る恐るフィリピンの地を踏んだ。そこで私が確認したことは「戦争はまだ終わっていない」ということであった。戦争の傷跡は今なお癒されないまま多くの人々の心に深く残っていた。それに加えて、国民の大半が極貧を強いられ、7割以上の子供が何らかの栄養障害に苦しむ現実を見てしまったのである。そんな衝撃の中で脳裏に浮かんだのはただ一つ、「こんな不公平があっていいのか」という、人としての憤りと素朴な問いであった。同時に「教育者」として「研究者」としてこの状況にどう応えたらいいのか、厳しい問いを突き付けられた。かくして私はフィリピンにつかまってしまったのである。
 帰国後の私は2年間、「何ができるか」「何をすべきか」を悩みつつ問い続けた。その結果与えられた答えが「フィリピン体験学習」という学生のためのプログラムであった。すなわち、わが国のアジア侵略の歴史をフィリピンの人々の視点から学び、それを踏まえて「どうしたら貧しい人々に学び、彼らと共に生きられるか」を考え、ひいてはそれを実践することを目的としたのであった。この体験学習は1988年から16回にわたって続けられ、この間の参加者は100名を越えた。私は3週間のプログラムに思いの丈を盛り込んだ。貧しい人々に重点を 置きながらも、できる限り多くの人々と触れ合い、分かち合う。大自然の中で土に親しみ、労働の快さと喜びを知り、感謝して粗食を味わい、心ゆくまで語り合う。こんなプリミティブ・ライフをエンジョイする中で、「生きるとは」「幸せとは」「豊かさとは」といった根源的な問題に思いを馳せ、自らの生きる意味を問う。フィリピンという異文化の鏡に映った日本と日本人の実像を凝視する。ODAやNPOのプロジェクトを見学し、真の国際協力のあり方を考える。目に見えないものに価値を置く人々の「精神性」を学ぶ。1995年、戦後50年に当たり、学生たちは自分たちの思いを「平和と和解のステートメント」にまとめ、フィリピンの訪問する先々で発表した。それは思いもよらぬ大きな反響を呼び、高い評価を得る結果となった。このことを通して学生たちは「過去の戦争責任についての明確な謝罪なくして、日比間の真の友好はありえない」という大切な教訓を学んだ。
 体験学習の最も重要な部分は、帰国後実生活の中でその体験をどう生かすかにあった。つまり「見てしまったこと」にどう責任を果たすかということである。私たちのモットーは、どんなに小さくても、身近なところから、今、始める。そして「細く、長く、しぶとく」続ける。たとえばフィリピンの友のことを思いつつ、週一回昼食を抜く、コーヒー一杯節約する。ネグロスの飢えた子供を今日一日生かすのに必要な給食費はたった7円!自分にとって1番大切なものを捧げること、たとえばタバコをやめるなど。体験学習の終着点は、私たち自身の価値観とライフスタイルを問い直し、無駄と贅沢を省き、「貧しい生き方」を自ら進んで選び取ること、それによって浮いたお金と時間と労力と何よりも思いをフィリピンや途上国の人々と「共に生きる」ために「分かち合って」いくこと。
 フィリピンの現実に触れた若者が、10年、15年たった今、どう生きているか。皆それぞれ、社会のさまざまな分野で自分らしく生きようと闘っている。新宿中央公園で家なき人々に給食サービスをし、彼らと共に礼拝を守る伝道師。スモーキーバレーでゴミを拾う人々と生活を共にするボランティア。ネグロスの貧しいサトウキビ労働者や少数民族に仕えるソーシャルワーカー。命の尊さを必死に伝える児童クラブ指導員。共生社会を目指すNPO職員。知的障害施設の支援員。作業療法士フリースクールの教師などなど・・・。彼らは自分の人生を自分で選び取り、喜びを持って生き生きと生きている。
 学生たちがフィリピンで受けた最大の衝撃は、非常に貧しい若者がもっと貧しい人々のために真剣に祈る姿であった。「分かち合い、共に生きる」は彼らが立ち上げたNPO「ふれんどしっぷASIA」のモットーである。今私は、こんな彼らに道を教えられている。

雨宮 剛・1934年愛知県生まれ・人文学博士・青山学院大学名誉教授>

特集-闇の中の光 4 2006/1/6)

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