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プチジャン神父
「私たちは皆あなた様と同じ心でございます。」
「サンタマリアの御像はどこ?」
「サンタマリア!この御名を耳にして、もう私は疑いません。今私の前にいる人たちはキリシタンの子孫に違いない。私はこの慰めと喜びを神に感謝しました。」
1865年3月17日、この「信徒発見」は世界でも歴史的な出来事として記録されている。
きっかけとなったのは、プチジャン神父が長崎の大浦に建てた天主堂である。
彼の任務は日本に住むフランス人の司牧だったが、教会を建てるにあたり一つの念願を持っていた。それは多くの殉教者を出した長崎には、信者の子孫が隠れているに違いない。教会ができればすぐにでも名乗り出てくるだろう、と言うものだった。天主堂が完成した時、プチジャン神父は手紙の中でこう述べている。「人々は目を見張っています。子どもも老人も“フランス寺”見物に出かけるのを楽しみにしています。」
1865年2月19日に献堂式が行われた。しかし、プチジャン神父の意に反し、開港したとはいえ、日本人に対するキリシタン禁制はまだ厳しく、長崎に住む外国人や軍艦の水兵が多数参列する中、日本人は殆ど姿を見せなかったのである。
神父は子どもにお菓子を与え、食べるときに十字を切りはしないかと気をつけて見たり、わざと落馬してキリシタンが助けてくれないかと試みたりしたが、それらしい人には一人も会えなかった。
それでも、天主堂のマリア像のうわさは村中に広まっていた。
「殺されてもよい。フランス寺の異人さんがバテレン様(司祭)かどうか確かめたい」という思いを、信徒達は天主堂献堂の約1ヵ月後に行動に移した。
この出来事をきっかけに、各地に潜伏していたキリシタンが次々に発見されていった。多くの信徒発見により、早急に解決を要する問題の一つは、宗教書の刊行であった。自由に司祭の指導が受けられない時代に、これらの書物を信徒達に与えるため、プチジャン司教(1866年司教叙階)は心を砕いた。書物は何とか調達した。印刷技術者の問題はフランスに帰国した折、ド・ロ神父を見つけたことで解決された。
1878年までに出版された教会出版物のうち、大浦天主堂で出版されたものは32種に上る。
プチジャン司教は迫害の最中、邦人司祭の養成にも意を注いだ。途中ピナン神学校(マレー半島)に逃れるなど多くの困難に遭いながらも、6年後には30人程の神学生を集め、1882年の末に3人の邦人司祭を誕生させた。
プチジャン司教が日本に渡った時、一人の日本人信徒も発見されていなかった。しかし、彼が世を去るとき、3万3千人の信徒を擁し、3人の邦人司祭を誕生させるまでに至っていたのである。
1884(明治17)年10月7日プチジャン司教大浦にて逝去。53歳であった。
参考資料
「キリシタン復活の父 プチジャン司教」 江口源一 著
「長崎のキリシタン」(聖母文庫)
(特集-司祭 2 2010/4/16)