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2. ロザリオの祈り

〈繰り返しの祈り〉
 ロザリオの祈りは、珠を繰りながら、「主の祈り」と、「聖母マリアへの祈り」を繰り返していく祈りです。
 ただ繰り返すということだけに目を留めるならば、「あなた方が祈る時は、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない」(マタイ6.7-8)と言う教えに反すると考える人もいるでしょう。しかし、この祈りが、もう六百年も行われている事実を考えてみましょう。多くの人々がロザリオの祈りをし、それを好んできました。皆口先だけの嘘の祈りだったといえるでしょうか?
 祈りはどこでも繰り返されるという原則を持っています。日本人にとって親しみのあるのは、浄土真宗の「南無阿弥陀仏」ですし、イスラム教にも、ヒンズー教にも似たような祈りがあるそうです。こうしたリズミカルな言葉や祈りを何度も繰り返すことによって私たちは次第に深いところに入って行くことが出来ます。それは繰り返しが、あらゆる生命の一要素だからでしょう。日は昇り又沈みます。波は繰り返し打ち寄せます。心臓の鼓動、呼吸、全ての繰り返しの中で私たちの命は育まれているのです。

〈マリアと共にキリストを観想する祈り〉
 ロザリオの祈りは口頭の祈りであると同時に、聖母マリアと共にキリストを観想する祈りでもあります。ロザリオほど、イエスの生涯と聖母マリアの生涯が深く一つに結ばれているものはありません。
 「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた」(ルカ2・19)といわれているように、聖母マリアの心には、数々のイエスとの思い出が刻まれていて、それを思い巡らし、祈っていました。これはまさにロザリオの祈りだったといえます。聖母マリアの観想は何よりも、「思い巡らすこと」でした。私たちは、ロザリオを唱える事によって、聖母マリアの思い出と観想のまなざしに心を合わせる事になるのです。
 福者バルトロ・ロンゴは「一緒にいることが多い二人の友の態度が似てくるように、ロザリオの神秘を黙想し、…イエスと、聖母マリアと親しく語り合うことによって、私たちは、私たちの卑しい身分に許される限りにおいてではありますが、彼らに似たものとなることが出来ます。そしてこの二人の最高の模範から、様々な徳を学ぶことが出来るのです。」と述べています。

〈キリストに願い求める祈り〉
 ロザリオの祈りは黙想であると同時に祈願でもあります。キリストは願いを聞いてもらうために粘り強く、信頼を持って願うように私たちを招いています。そしてその祈りを支えるために、マリアは間に立って母としてのとりなしをしてくださるのです。カナの婚礼において、マリアはキリストへの執り成しの力を「ぶどう酒がなくなりました。」(ヨハネ2・3)と言う言葉ではっきりと示しています。
 神の母に粘り強く願うことは、マリアの母としての執り成しによって、御子が心から全てのものを与えられるという確信に基づいています。ロザリオを唱えながら聖母マリアに願い求める時、聖母は私たちと共に、また私たちのために祈りながら、御父と御子にわたし達のための執り成しをして下さるのです。

参考資料
「おとめマリアのロザリオ」教皇ヨハネ・パウロ二世使徒的書簡 カトリック中央協議会
「目からウロコ ロザリオの祈り再入門」 女子パウロ会
「聖母のロザリオの祈り 聖フランチェスコ」 天使館

(特集-ロザリオ 2 2009/9/18)

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